ゆいを初めて見たとき、彼女はとてもきれいな顔をして、生きているのか死んでいるのかわからないような静かな寝息をたてて、木漏れ日の差す木陰で眠っていた。
興味本位で近づいた僕はその安らかな寝顔に、初めてゆいの顔を知ったにも関わらず愛らしさと、妙な安心を感じた。眠っている人の顔をじろじろと見るのは悪いと思っても、僕はゆいが目覚めたときに話しかけてみたいと思ってその場で彼女が起きるのを待つことにした。
彼女はどんな瞳をしているのだろう。よく伸びたまつ毛の間にあるその瞳は、きっと美しいに違いない。そんな風に思って僕は彼女が早く起きないだろうかとわくわくしながらゆいの顔を覗いていた。しばらく傍にいると、昼休みの終了を告げる5限の予鈴がゆいを十分に目覚めさせるほどの音の大きさで鳴り始めた。教室に戻ろうとする生徒のざわめきが校舎の中で反響していた。彼女は何も言わず、静かに目覚めた。
だが、ゆいが目を覚ました時、僕は彼女が普通の人ではないことを知った。
5限の予鈴に目を覚まされた彼女の瞳に、僕は映っていなかった。
いいや、この世界のすべてが彼女の瞳には映っていなかった。
ゆいは目が見えなかったのだった。
まったく焦点を合わせることのない瞳。
虚空をさまよう視線はゆいの目が全く機能していないことを説明するには十分すぎるものだった。

「だれ」

だが、逆にいうと彼女は目が見えないというだけだった。
ゆいは傍で目覚めるのを待っていた僕に気が付いて話しかけてきた。僕はその時、ゆいの声はまるで雪のように軽くて、かつ柔らかみのある声だと感じた。

それが僕らの始まりだった。

僕はあっという間にゆいのことが大好きになった。
ゆいに世界は見えていなかったけれど、その代わりに見える、僕の知らない世界を知っていた。ゆいは僕の世界を広げてくれた。また、反対に僕がゆいに自分の知る世界を教えもした。とにかく一緒にいると楽しかった。ゆいといると一秒一秒がとてもまぶしくて、愛しいと感じた。そして、これが恋という感情なのだろうと口には出さないけれど、ぼんやりと自覚していた。この頃には、ゆいも僕に対して、そんな優しい感情を向けてくれていた。僕たちに障害は何一つなかった。


「ゆい、雪が降っていますよ」

「どれくらい?」

「一面、銀世界です」

「そう、私も博之と同じ景色を見ることができたらいいのに」

「…ゆい」

降り続ける雪の中、僕は溢れる感情を抑えきれず彼女を抱きしめた。
ゆいは僕の行動に対応しきれないで一瞬ふらついたが、落ち着くと僕をゆっくり抱き返した。僕の腕の中にいる彼女は温かかった。胸が締め付けられるほど、愛しいと思った。

僕とゆいの影が一つになった。





「博之、私、今すごく幸せだよ」

二人で白い雪を踏みしめて駅に向かいながら、ゆいはそう言った。しんしんという音が響く白い世界。後ろを振り向くと僕らの足跡があっという間に新しい雪で埋もれようとしていた。二人で繋いだ手はとても温かくて、幸せそのものだった。その日はとても寒さが厳しい日だったけれど、自然と二人に笑みがこぼれていた。

「それじゃあ、また明日会おうね」

ゆいは寒さで赤くなった頬をはにかませた。ゆいの口から漏れた白い息があっという間に空に消えていく。

「…やっぱり、送っていきましょうか?」

雪の降る今日は足元が悪くて、目が見えないゆいが一人でちゃんと帰ることができるか心配だった。できればゆいをちゃんと家まで送りたいと思った。
だけど、ゆいは僕の帰りが遅くなることを心配して、

「ううん、大丈夫。心配してくれてありがとう、博之」

そう言うと、繋いでいた手を静かに離した。
ゆいはいつも利用している駅を一人慣れた様子で上ると、途中で振り返って小さく僕に手を振り、家路についた。

ふと、僕の頬に雪が落ちてきた。
冷たい白い花は頬の熱ですぐに溶けてその雫が頬を伝った。
ゆいがいなくなると、雪は途端にその冷たさを現した。僕は急に孤独になった気がした。早く帰ろう。僕は肩に積もった雪を手で払いのけながら、帰路に就いた。





翌朝、学校に行くと、いつもとは違う異様なざわめきが廊下に響き渡っており、僕は何となく嫌な予感がした。まさかこのざわめきの発生源はゆいの教室からではないか。ゆいの教室に近づくにつれてその嫌な予感はますます現実味を帯びてきて、いよいよ嫌な予感はどうやら的中しているということがわかった。まさか、彼女に何かあったのではなかろうか。しかし、それを確認することを怖いと感じた。だが、この騒ぎの原因が彼女でないことを確認することなしに僕の心臓は落ち着きを取り戻しそうになく、早足でゆいの教室に向かった。別に、たいしたことじゃないかもしれないじゃないか。生徒同士の喧嘩だってことも、ありえるのだから。そんなことを考えながらゆいの教室に近づくにつれ、逸る気持ちと尋常ではない心拍を必死に抑えようとしつつ、人の海をかき分けながらなんとか教室に入った。
躓くようにしてゆいの教室に入ると、現実が僕の目に映像として入ってきた。

「…」

ゆいの机の上には小さな花瓶が置かれ、その中には項垂れるように咲く一本の白百合が差し込まれていた。
ゆいのクラスメイトの女生徒たちは彼女の机のまわりや、教室の隅で、あるものはその場に崩れてしまいそうになる友の肩を抱き寄せ、共に支えるようにし、声を震わせて泣いていた。

「そんな…」

僕は愕然とした。
ゆいは死んだ。昨日駅のホームで電車を待っていたところ、誰かに突き落とされたらしかった。小さな無人駅での出来事で、その時ホームにはゆいと犯人の他には誰もおらず、犯人はそのまま逃げて、今はどこにいるのか、誰なのか誰にもわからない。


その一日は学校が終わるまで僕は一体何をしていたのか記憶がない。ただ、抜け殻のように、死んでいた。授業中に時々ひどい焦燥感に駆られたり、どん底に落とされた絶望感が体を侵食したり、行き場のない苛立ちが溢れてきたり、目の奥が熱くなったり。僕は内から現れる感情の波に飲み込まれて、おかしくなりそうだった。椅子に括り付けられているのが苦痛で仕方なかった。

嘘だ。
ゆいが死んだなんて、嘘だ。

学校が終わると部活には出ず、一人河川敷に向かった。昨日の雪は、午前からの暖かい日差しで、まるで嘘だったみたいにこの世界から消えていた。
僕は、河川敷に着くと橋の下に座り込んだ。昨日の雪が解けた橋の下は、じめじめとした空気が蔓延していて、まるで今の僕に対して同情しているようだと感じた。部活を休むと地木流監督に伝えた時のことを思い出した。監督は僕のひどい顔を見て一言、わかりました以外に何も言えなかったようだった。思わず自嘲した。が、そのあとも湧き起ってくるのはただ虚無感で、嗚咽した。

あの時、僕がゆいをちゃんと見送っていれば。
絶対こんなことにはならなかった。僕がゆいを守ることができたはずだ。

犯人を恨むよりも、自分のあの時の選択を悔やんで仕方がなかった。
もちろん、いくら悔やんでもあの時の選択をやり直すことなんてできないと知っていた。この世界は不可逆で、過去はどうやっても、どんなに願っても、変えることはできない。でも、自分をこうやって責めるほかにこの感情をどこに向ければいいのかわからなかった。


雪のようにこの世から消えてしまったゆい。


『博之、私、今すごく幸せだよ』


彼女の言葉が脳内に焼き付いて離れなかった。





河川敷に、少年の絶望がこだました。



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