携帯の液晶に表示された名前を見て、僕は慌てて電話に出た。
「ゆい」
名前を呼んでからしばらくの間返事が返ってこなかった。何かの悪戯かと焦りを覚え始めた頃、漸くゆっくりと絞り出すような声が聞こえてきた。
『…博、之…』
間違い無い。彼女の声だった。
僕は信じられず、しばらく電話を持ったまま立ち尽くした。
その間僕の耳に入ってくるあなたの声。それは泣き声だった。
ゆいは無理をした声色でこれまでの経緯を僕に話し始めた。僕は何も言わず黙ってそれを聞いていた。彼女の後悔で一杯の声が僕の鼻をつんとさせるのがわかった。
『私、本当に馬鹿だった…』
しゃくりあげる声が僕の耳の中に木霊する。それが僕の心を締め付けて、苦しかった。
「ゆい、泣かない、で」
『だって…』
ゆいは暫く言葉の続きを言うのを躊躇っていた。僕はゆいが何を言いたいのか、一言も聞き漏らさまいと黙ってゆいの言葉を待っていた。
そして、ノイズ混じりに彼女の言葉が僕の鼓膜を揺らした。
『…寂しい、…よ』
言葉の最後の方は吐息で響くノイズに負けてしまうような声になりながら、ゆいはそう言い終えた。今の彼女にとってそれがどんなに言いにくい言葉であるか僕はよく知っていた。僕は只切ない気持ちになっていた。フォンからは続けて、ぐす、ぐす、とゆいが鼻を鳴らす音が響いていた。
…僕だってそうだ…
心の奥底からくる僕の感情の声に気がつくと、たまらなくゆいと会いたくなった。今すぐ会いたい。出来るなら、抱き締めてゆいの首もとに顔を埋め、ゆっくりと深呼吸がしたい。ゆいの匂いが恋しい。声だけでは寂しさが益々募っていくだけだった。会いたい。会いたい。僕はこの望みがどういうことを意味するかわかっていた。それでもゆいのためなら、自分がどうなってしまっても良かった。
「…わかりました。
…今から行きます」
『え…
でも……駄目、だよ、そんなの…』
僕の言葉を聞いたゆいの声が不安の色に染まっていた。
「良いんです、
僕はゆいの声をずっと聞きたかった。
それにゆいの隣以外に僕の居るべき場所はないのですから」
僕がそう言い終えると一度収まりかけていたゆいの泣き声が再び大きくなった。
『駄目…、そんなこと、言わないで』
「でも…」
『お願い…博之…』
ゆいは本当に優しい。
僕は本当に馬鹿だ。あなたがこういえば僕のためを思って断るなんて分かりきっていたのに。
でも、できることなら本当に傍に居たかった。ずっと一緒に居たかった。それがどんなに儚い願いかと知っていたにも関わらず。
『じゃあ、そろそろ…お別れ、だね…』
ゆいはそう言うと涙声でふふ、と笑った。
「…ゆい」
傍にいけない僕は、せめて最後にゆいへこの言葉を伝えたいと思った。世間からはまだ子供の癖になんて言われるかも知れないけれど、僕のゆいに対する感情はこの言葉でしか形容できないものだと思った。
「大好きです、愛しています」
『ありがとう
私も、…あいしてる』
ゆいは静かに、幸福の色を浮かべた声でそう返事をした。そして深く息を吸い、暖かな声で最後の言葉を呟いた。
『…さようなら』
ツー、ツーと無機質な電子音が繰り返される携帯電話を僕はしばらくの間耳から離すことができなかった。電話が切れてから、僕は初めてあなたは本当にこの世界から消えてしまったのだと泣いた。
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亡くなった彼女からかかってきたお別れの電話の話。