「僕、本当は目が見えなかったんです、生まれてから、ずっと」
僕がそう告白すると、君は困惑したような表情を浮かべた。
無理もない。
今の僕は正常に世界が見えているからだ。(寧ろちょっと見えすぎるくらいだ、)
だけど、僕はそんな様子の君を見ていて不思議と君にその経緯について話すつもりになった。
僕は小さい頃、いつも夜になると泣いていた。
でも、泣くというものがどんな姿なのかさえ僕にはわからなかった。何故なら僕の目は見えていなかったからだ。
夜は静かだ。夜はいつも僕に不安を抱かせ、孤独は暗闇の中から僕を襲ってきた。
僕は両親に心配をかけまいという気持ちからいつも部屋の外のベランダで泣き、口から漏れる咽び声を必死に噛み殺していた。
そんな日々をずっと繰り返していたある秋の日の夜だった。
「貴方はいつもここで泣いているのね」
退屈そうな声色でベランダの隅にいた僕に話しかけた声は、彼女のものだった。その時の僕には母のものとは全く違う、今までに聞いたことがない声だった。僕はどきり、と心臓を言わせながら声が聞こえる方に顔を向けた。目の見えない僕には、その声の持ち主が誰なのか、どんな姿をしているのかを知ることはできなかった。しかし、夜遅く、しかも母以外でベランダの隅にしゃがみ込んでいる僕に話しかけることの出来る『人間』はいない、僕はそう思って、
「誰……神様?」
そう、子供らしい発想で訊ねた。
すると彼女はおかしそうにふ、と息を吐いて可笑しそうに笑い、
「いいえ、そんなものじゃないわ。
…貴方、眼が見えないのね」
そう言うのと同時に彼女の冷たい手が僕の頬に触れた。そして彼女は僕の頬に伝う涙を親指で拭った。
焦点を結ぶことのない、虚空をさまよう視線。それらが僕の両の目が見えないということを証明していた。
「名前は?」
「ひろゆき」
「そう、ひろゆき。
私は神ではないけど、私が貴方に“よく見える眼”をあげてもいいわ」
小さな僕は、彼女の、この発言に心が躍った。
「本当…?」
縋るような思いを抱きながら、そう訊くと、彼女は僕の頬に触れていた手を僕の心臓の上にまでスライドさせて、
「だけどタダじゃないわ。私は魔女だから。眼をあげるかわりに、貴方の心臓を頂戴」
そう、条件を提示した。僕の心臓の音が大きく、速くなった気がした。
「僕の、心臓…?」それを聞いて僕は少しだけ怖くなった。
心臓を取られてしまったら、僕は死んでしまうのではないか、と、そう思ったのだ。急に彼女の手が触れている部分が重くなったような感覚を持った。
「死にはしないわ。寧ろ貴方は永遠の命を手に入れる」
彼女は僕のそんな恐れを見透かしたのだろう、優しくそう呟き、
「私が守ってあげるのだから」
そう言い終えるのが聞こえたのと同時に、僕は黒い世界に浮かぶ丸くて白いものを見た。それは、満月だった。
こうして僕の眼は見えるようになった。
「さあ、心臓を、
私の名前はゆいよ。口にしてご覧なさい」
僕が初めて見た世界にいたゆいは、背筋が寒くなるほど美しかった。ゆいの存在や力は奇跡と呼ぶに相応しく、例えるならばまさにその意味の花言葉を持つ青い薔薇のような不気味なまでの美しさと神秘性を兼ね備えていた。
ゆいの姿を見てから、今まで以上に心臓の音が激しくなったのを感じた。どき、どき、耳の内側でうるさいほどに響いていた。
その時から、僕の心はゆいに奪われていた。
「…ゆい」
そしてそう呟くと、僕の胸からあれほどうるさかった拍動がしんと消えた。
代わりに僕の心臓が彼女の掌の上で拍動を続けているのが見えた。
「ひろゆきの命は、これからずっと私が守ってあげるわ」
彼女は冷たい笑みを浮かべていた。
ゆいが僕の目の前に現れるまで僕の世界は常闇だった。そこには何もなかった。いや、寧ろ世界というものが本当に存在しているのかさえ知りはしなかった。
「僕、本当は目が見えなかったんです、生まれてから、ずっと」
君は怪訝そうな顔をして僕を見た。
「魔女は僕に“よく見える”眼を与えてくれました、」
でも、僕の心臓を持って行ったまま、それから二度と目の前には現れませんでした。
「そんなの、おかしいよ」
ふと君はそう言った。
僕は抗議する君を見て、静かに微笑んだ。
自分が騙されているのかもしれない、なんてこと、わかっている。
それでも、
僕は彼女を愛していた。