「ねえ、博之…お願いがあるの」

「…何です、か」

「もし、私が意識を失って、助かる見込みが無くなっても、大量のチューブに繋がれて生き続けていたら」


「殺して欲しいの」



今日は風も穏やかで暖かな春の日だった。桜も咲き始めて、病院の廊下の窓からは町の中にちらほらと薄いピンクの部分が確認できた。

ゆいは病室のベッドの上で眠っていた。人工呼吸器や大量のチューブに繋がれ、何の液体なのか僕にはさっぱりわからないものを様々に点滴されていた。その光景を見ると、僕は正直、不気味で肌が寒くなるように感じていた。

今日でゆいが意識を失ってから一週間になる。ゆいはこれからずっと眠ったまま、もう意識が戻ることはないそうだ。ゆいの母にそう、知らされた。
ゆいの手を握ると、暖かくも、冷たくもなかった。ゆいが僕の手を握り返すことは、勿論なかった。
それでもただ、僕はかつてそうしていたように彼女の手を握っていた。
彼女は眠っているようで、もう二度と意識が戻らないなんて、信じられなかった。今だって、頬を撫でてやれば目を覚まして微笑んでくれそうなのに、どうして医者にそんなことが分かるのだろうかと不思議に思った。
とにかく、僕には受け入れ難かった。
それでも、不思議と涙は出てこなかった。多分、あまりの出来事に僕の心がついていけていないだけだろう。現実味がなさすぎるのだ。
この病室で、僕たちは色んな時間を過ごした。僕には短い時間だったけど、ゆいはいつもここで何も出来ずにベッドに張り付かされていることが殆どだったからきっと退屈だっただろう。
だからせめて僕がいる間だけでもと色々なことを出来る限り君にしてあげた。
病室で迎えた二人の記念日に、僕は指輪をあげた。左手の薬指に填めてやると、ゆいは口元を綻ばせ、翳すようにしてじっくりと見つめていた。決して高価ではないそれは少しチープに見えたかもしれない。だけど、ゆいは涙を流して喜んでくれた。
いつか、もっと高いものを買ってあげるよ。そう約束したけれど、どうやらその約束を果たすことは出来ないようだ。
少しだけ、僕の目頭が熱くなるのを感じた。泣くな。まだ、泣くな。
ベッドの上に横たわるゆいの薬指に嵌められた指輪が鈍く光った。

死が美しいなんてことはない。僕は知っている。だけど、ゆいの願い通りにしてやることが、約束を果たせなかった僕に出来るせめてのことだった。
後戻りは出来ない。微かに指先が震えた。自分がこれからどうなってしまうのかなんて、今はまだ、考えたくなかった。

震える手を一度ぐっと握って、開いた。いける。

僕はゆいの口を覆う鬱陶しい人工呼吸器に手をかけ、手の甲や腕に刺さる点滴を引き抜いた。
久しぶりに本当のゆいを僕の元に取り戻した気がした。ゆいの額を撫で、唇に口付けを落とした。
やかましく鳴り響く電子音が耳につく。もうすぐ異変に気がついた誰かが二人の空間にやってくるだろう。
でも、この五月蝿い電子音が二人の祝福の音色に変わるまで、今暫くの間、二人の時間を楽しんでいようと思う。
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