「ボナセーラ、お嬢さん」 いつもより遅くなってしまった帰り道、背後から聞き覚えのない声で話しかけられ、名前は驚きで一瞬息を忘れた。 時刻は既に夜中、明かりと言えば数メートル置きに立っている頼りなげな電灯のもののみだ。 ましてここはあまり治安がいいとは言えないナポリの街。 ジェフリー・ダーマー、ペーター・キュルテン、ジャック・ザ・リパー、有名な通り魔達の名が頭をよぎる。 恐ろしさに喉が凍りつき、名前は悲鳴を上げることもできないまま一も二もなく駆け出した。 彼女の縺れる足を止めたのは行き止まりの煉瓦塀だった。 「大丈夫、そんなに時間は取らないから」 やけに近くから聞こえる声に恐る恐る振り向くと、怪しげな眼帯をした金髪の男がすぐ後ろにいた。 反射的に飛び退き、後ずさる。 「君に少し聞きたいことがある」 この状況に不釣合いなほど落ち着いた物腰の男だった。 しかし眼帯から覗く目は異様なほど輝いて、隠し切れない異常さが滲み出ている。 まるで獲物を前にした獣の目つきだ、と名前は思った。 「お願い、殺さないで」 その視線に気圧されるようにじりじりと追い詰められ、震える喉からやっと搾り出した言葉は酷く掠れていた。 背筋を冷たい汗が流れる。 生まれて初めて感じる生命の危機を、名前はどこか他人事のように思いながら、それでもどうにかこの場を切り抜けようと精一杯に頭を働かせる。 「殺しはしないさ。ただ、君の健康状態と生年月日、血液型を教えてほしいだけ。ああ、あと飲酒喫煙、麻薬の経験の有無もね」 懸命な模索も虚しく、男がその不可解な台詞を言い終わると同時に追いかけっこは終了した。 背中に当たった硬く冷たい煉瓦の感触が彼女を絶望させる。 もう逃げられない、そう悟った名前はせめて相手の機嫌を損ねないよう質問に正直に答えた。 「…なるほど、占いによると君とターゲットは相性がいいみたいだ」 男は暫くの間その場に屈み込み、どこからか取り出したノートパソコンに名前から得た情報を打ち込んでいたが、どうやら結果が出たようだった。 「残念だな。こんな夜中に出歩いてるふしだらな女なら、きっと上手くいくと思ったのに」 言っている意味は相変わらず分からないが、とにかく自分はこの男の捜していた人間ではなかったらしい。 名前はそう思い、一安心して胸を撫で下ろす。 もしかしたらこのまま無事に家に帰れるかもしれない。 「でもこのまま逃がしてしまうのは流石に惜しい」 しかしほっとしたのもつかの間で、男はそう易々とは帰してくれなさそうだった。 立ち上がり顎に手を当て、品定めするような目線を名前の全身に這わせている。 「…じゃあ、オレと君のセックスの相性を試してみようかな」 嫌な予感がすると思っていたところを、卑猥な冗談と共に手を取られ、服の上から硬くなった男性器に触れさせられた。 触れたその手から一瞬にして名前の身体に怖気が走る。 汚らわしい、変質者。 「嫌!」 命の危機より生々しく現実味を帯びた嫌悪感に、今まで竦み上がっていたのが嘘のような素早さで男の手を振り払った。 「抵抗は無駄だよ。楽しんでしまった方が君のためでもあり、オレのためでもある」 そう言いながら、男は繊細そうな長髪の見た目に反した力強さで名前の衣服を乱暴に剥いでいく。 彼の言う通りいくら暴れても到底適いそうにはなかった。 名前の必死な形相とは対照的に、今に鼻歌でも歌いだしそうな軽い表情で藻掻く彼女の腕を捩上げる。 「君の好きなように犯してあげるから、好みの体位を教えてよ」 彼女の乱れた前髪を払い、痛みに歪んだ顔を見て男はにまりと笑った。 「と言ってもここじゃ後ろから以外は難しいかな?ま、とにかく希望を聞かせて」 なんてふざけた、酷い質問なんだろう。 逃げることも反撃することもできない、自分はこれからこんな場所でどこの誰とも分からない変質者に犯される。 その悔しさと悲しみに、名前は唇を噛み締めた。 |