「お前とは今日で終わりだ」

もうここには来なくていい。

ホテルの一室、ドア一枚を隔てたところにいる男の言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、名前はまだその場から動くことができないでいた。


つい数時間前まで同じベッドの上、激しく体を求め合っていた二人。
愛の言葉こそなかったけれど、そこには確かに人肌の温もりがあった。

それがいつものようにシャワーを浴び、服装を整えたところで突然酷い手のひら返しを受けるなど、全く予想もしていなかったことに、名前は何も言えないまま部屋を追い出されてしまった。

重い音をたてて目の前で閉まる扉。
その金属の軋む音を一生忘れられない気さえした。


彼と名前は夜の道で声をかけられたのを始まりに、週に二度ほど呼び出されて抱かれ、金を受け取る関係だった。

そんな関係だったから、まともな男女の仲を期待してはいけないと最初から分かっていた筈なのに、名前は名も知らぬその男の逞しい腕や意外に優しい手つきを次第に愛するようになってしまった。

それを気取られたのか、彼は急に彼女を突き放したのだ。


ようやく動かせるようになった身体を引きずるようにして、既に薄明るくなってきている道を歩く。

彼の体温がまだ残っているような気がして、逃すまいと一人の身体を抱きしめると、走馬灯のように今までのことが思い返された。

俯いた顔から涙が頬を伝い零れ、ぽたり、ぽたり、コンクリートに黒く染み込む。
呼応するかのように空から降ってきた冷たい水滴が同じ染みを作っていき、徐々にそれもわからなくなっていく。

天さえも彼と名前の関係を塗り潰そうとしているようだった。


こうして彼に抱かれた最後の夜は季節外れの俄か雨とともに惨めに閉じた。




トルルルルルル

回想をかき消すようにして電話が鳴る。

「プロント」

「ぼくです。今夜、あえるかな」

電話の主の名前はドッピオと言った。

数ヶ月前、あの男と出会った場所で同じように声をかけてきた少年。
彼を失ってから日々をただ流れに身を任すようにして無心に過ごしてきた名前だったが、その出会いに何か運命めいたものを感じ、そのまま関係を続けている。

そして実際、運命のように、ドッピオと名前を捨てたあの男はどこか似ていた。
ふとした仕草、身体のにおい、瞳の輝き、そういったところにあの男の影を見出す度、名前の胸を棘がちくりと刺した。


「ええ、勿論」

しかしそれ以上にドッピオは優しかった。
最初の夜、名前は何も言わないのに、彼は何故か名前の欲しがっているものをよく理解していて、そしてそれを全てくれた。
温かな腕、熱い唇。激しい夜と穏やかな朝。
あの男が一度もくれなかった愛の言葉まで、ドッピオは耳元で何度も囁いてくれた。

その心地よさに名前は与えられるまま、毎晩のように彼との行為に溺れた。



「お邪魔します」

インターホンも押さず、慣れた様子のドッピオが合鍵を使って部屋へ入ってくる。

あの男との時とは違い、ドッピオとの逢瀬はほとんど名前のアパートで行われた。
彼はもう部屋のどこに何があるかを完全に把握していて、時々名前が起きる前にキッチンで朝食を作ってくれるくらいだった。
そんなところからも分かるように、既に共に過ごした時間はあの男よりも長くなっている。
それなのに、名前の心には未だあの男との記憶が色褪せることなく鮮明に焼き付いていた。


「今日は遅かったね」

「うん、ちょっと色々してて」

彼は自分のことをほとんど話そうとしなかった。
年齢出身職業、名前はドッピオの名前以外のプロフィールを知らない。

プライベートには一切首を突っ込ませない、彼のその態度もまた、否が応でもあの男のことを思い起こさせた。

さり気無く探りを入れる度誤魔化され、そうして凝り固まっていく猜疑心。

彼もあの男と同じなんだ。深みにはまってはいけない。

名前はドッピオに惹かれていくのと同じ速度で、彼に対する警戒心を強めていた。

情が深ければ深いほど失った時の傷もまた深い。

それを知っている名前は、今夜も少し冷めた目をして彼に接する。

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