「…よォ」


久しぶりに見る彼女の顔に、ホルマジオは少し気まずく声をかける。



しばらく連絡も寄越さず放置しておいて、今日もアポなしでいきなり訪れた彼。

そんなことにもう慣れてしまっている名前は文句も言わず、ただ「おかえりなさい」とだけ言って笑顔でもてなした。




「今ちょうど、夕食を用意していたところなの」

名前はエプロンをつけていて、部屋の奥からはいい匂いがしている。


「火をつけっぱなしだわ」

そう言いながらぱたぱたとキッチンへ戻っていく名前を追いかけ、ホルマジオは勝手知ったる「第二の我が家」へ約二ヶ月ぶりに足を踏み入れた。








「それは後で、ね」


腰に手を回すホルマジオを軽くあしらいながら、名前は出来立ての料理を皿の上へ盛りつけてゆく。


「ちぇ、おあずけかよ」


照れ隠しに言う彼の目線は彼女の手元に注がれている。


男である自分のそれより一回りも小さく、それでいて細やかな動きのできる女の手。白い皿の上を踊る様子が蝶のようで、ホルマジオは普段あまり注目する機会のないその部分にしばし見とれた。

すらりとした形の良い指先には、清潔に短く揃えられた爪。
付け合せのサラダを作る時冷水を使ったせいで少し赤くなっているところも可愛らしい。


名前の手は、日常的に料理をする家庭的な良い女の手だ。

この広い世界のどこかには女の手だけが好きだという変態趣味の野郎もいると聞くが、分からなくもないなとホルマジオは思った。







「テーブルまで運ぶから、座って待ってて」

ホルマジオがいつ来てもいいよう、名前は食事をいつも二人分用意する。

いつだったか、それを不便じゃないかと聞いた彼に、彼女は「いつもはこの子が食べてるの」と一匹の毛の短い雄猫を紹介した。

名前はつけていないらしいその猫は耳が後ろへ倒れている種類で、丸い顔からくる愛らしい印象とは裏腹に、ホルマジオが近付くと毛を逆立てて威嚇した。

そんな彼も二人の食事に参加し、彼女の足元でキャットフードを食べている。

「いただきます」


スプーンを手にとり、作った温かいスープを胃に流し込む。

ニンジン、タマネギ、ジャガイモ。煮詰められた野菜からよい出汁が出ている。

紙ナプキンを巻いたチキンにも齧りついた。
皮は良い具合にぱりぱりとして、柔らかい肉は少しの力で骨から綺麗に剥がれていく。


向かいに座った名前はスプーンをゆっくりと動かしながら、にこにこしてホルマジオの良い食べっぷりを見守っている。

チキンもスープも塩加減が少し薄めだったが、ホルマジオはこれが名前の味だ、とほっとした。


「相変わらず美味ぇな、お前の料理は」

「ふふ、ありがとう」


名前は料理上手で他の家事も良くこなす、所謂「良い奥さんになる」女だ。

久しぶりに味わう彼女の料理に「帰ってきた」と実感しながら、ホルマジオはふと、今更ながら申し訳ない気持ちになる。


名前も自分も、二十をいつのまにか通り越し、もう立派な大人になってしまった。

いつか本当の二人の家を、と十代の頃に何度となく語った夢は、しかし未だ夢物語のままだった。



ホルマジオは自分がギャングであることを彼女に隠していたが、名前だって馬鹿ではない。
何も聞かないのはとうに気が付いている証拠だろう。

俺と一緒に暮らすなんて、きっとずっと昔に諦めちまってんだろうな。

自分が真っ当な職に就いていないせいで、名前は世間の女がごく普通に得ている「結婚生活」という幸せを手に入れられない。

親や友人達にはどう言っているのだろう。
名前ほど気立ての良い女なら、他の男からアプローチを受けることもあるだろうに。

考えれば考えるほど自分の存在が彼女を不幸にしているように思えて、ホルマジオは食事をする手を止め、らしくなくも小さな溜め息を吐いた。


「どうかした?」

首をかしげる名前。

自分を心配してくれているこの優しい瞳が他の男を映すところを想像する。

「いや、なんでもねぇよ」

我侭だと分かっていても、名前を手放すようなことは考えたくなかった。


椅子に座ったまま、食器を洗う彼女の後姿を眺める。

スポンジの泡で次々と汚れを拭っていくその手際のよさは、もう何年も会っていない故郷の母を思い起こさせた。

子供の一人でもできれば何か変わるかもしれない。

ちらりと頭をよぎったその安易で危険な考えに、ホルマジオは苦笑いする。

子供なんて以ての外だ。
名前一人幸せにしてやれない俺が何を甘いことぬかしてんだ。

…しょうがねえな。

いつの間にか口癖になっている言葉を、ホルマジオは自分自身を諌めるために使った。






風呂を済ませ、狭いベッドの中で何でもないようなことを話しながらべたべたと触れ合い、イチャつく。

名前は連絡のなかった時期に彼が何をしていたのか一切聞こうとはしない。
ホルマジオもそれを幸いに、この時間だけは仕事のことを一切忘れて癒されることができた。



抱き合った肌が温かい。
横たわると髪が流れてうなじが見え、自然とそこに視線が吸い寄せられる。

「ん…」

ふと会話が途切れた時、どちらからともなく唇を重ね合わせた。


「いッ!ってぇ!」

突然、ベッドへ飛び乗った何物かが腕を鋭く引っ掻いた。
折角の良い雰囲気をぶち壊されてホルマジオは途端に不機嫌になる。


「あ、こら!だめでしょう」

名前が叱る先には茶トラの毛玉。

「…おめぇか、こら」

ホルマジオが首根っこを捕まえて持ち上げると、彼は手足をばたつかせながら「フギャアーッ」と唸って怒りを露にした。

「畜生、血ィ出てるじゃねえか〜…」

「ごめんね。普段は大人しいのに、なんでかしら。…でも、この子とあなたってちょっと似てるかも」

「あァ?そりゃ一体どこがだよ」

「茶色い毛並みとか、いっぱい食べるとことか…あと、優しいところも」


猫の背を撫でながら楽しそうに言う名前。
先ほどまで暴れていた癖に、現金なこの雄猫は今は彼女の腕の中で気持ちよさそうに喉を鳴らしている。


「こいつのどこが優しいんだ?」

「わたしには優しいの」

名前はくすくす笑う。


猫に彼女を盗られてしまったホルマジオは「二人だけの熱く甘い時間」を諦め、その小さな恋敵を恨めしく睨んだ。



しかし犬ならまだしも猫がこんなに人に懐くなんて、普段からよっぽど可愛がっているのだろう。


…それも当たり前か、とホルマジオは心内で自嘲する。

親元を遠く離れた一人暮らしの上恋人がこんな体たらくで、名前は行き場のない「愛情」をこいつにたっぷりと注いでいるのだろう。


猫はまるでキスでもするように、彼女の細い指をぺろぺろと愛しそうに舐めている。


もしかするとこいつは、自分が名前の恋人だと勘違いしているのかもしれない。

だとしたら、いつもああやって名前に近づく他の男を追い払っていたりするのか。


そう考え至ったホルマジオは、人間の男にやってしまうくらいなら自分がいない間は彼女を彼に任せてやろうと思った。


…俺一人では無理でも、一人と一匹でなら名前を幸せにできるかもしれない。

靄がかかっていた空に一筋の希望が見えた気がした。

そのためにも、俺もこいつと仲良くならなきゃあな。






「フギャァアアオ!」

まずは動物の扱いに慣れるところから。
そう思って拾ってきた猫は、しかしいつまでたっても懐こうとしなかった。


俺は動物に嫌われる体質なのか?

膝の上で暴れる忌々しい猫を持て余しながら、ホルマジオは次はいつ「家」に帰れるだろうかとぼんやり考えた。



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