Immorality (6)

約束したコーヒーショップに着くとすでにニールの姿があった。
表情を引き締めてから、ゆっくりと近付いて行く。
学校以外で見るのは初めてだったが、こうしてその男を眺めると、女達があれだけ騒ぐわけが分かるような気がした。
男でさえ『あいつはカッコイイ』と口に出す奴も多いし、悔しいが実のところ俺でさえ男前だと思っていた。
向かい合わせるように何も言わずニールの正面の椅子に腰を下ろすと、こっちの方が目のやり場に困りそうほどの真っ直ぐな瞳を向けられた。
コイツってこんな感じだったか?
ふとそう考えながら、ニールの隣の椅子にハロの鞄が置いてあることに気付く。
二人の間に何かがあったのは確かだろう。

「こんな時間に悪いな」
「……別に」
「あいつの家に何度電話しても誰も出ねえから。まあ、いつものことだが」
「それで? ハロに何があった? つかアンタが何かしたのかよ」

目の前の瞳を睨みつけると、ニールも正面から俺を見つめ、戸惑うことなくはっきりとした口調で短い言葉を告げた。

「キスした」

俺は自分でも驚くほど冷静にその声を聞いていて、何故か怒りの感情が湧いてはこなかった。

「ハロに、キスしたんだ」

真顔で視線を向けて、まるで確認するかのように繰り返す。

「冗談、じゃねえよな」
「そう見えるか?」

その言葉通りコイツの真剣な顔つきを見れば、冗談ではないことなど嫌というほど伝わってきた。
ニールが静かに呟いた。


「……驚かないんだな」
「驚いてるに決まってんだろ! けど……」

言葉につまった俺を、ニールは黙ったまま、じっとその続きを待っている。

「何となく予感はあったんだよ。ハロとアンタが……」

逆に驚いたのはニールの方で、俺の意外な返答に目を大きく見開いてみせた。

「なんで俺にこんな話すんだよ……生徒にそんなことしたら、普通隠すだろ」
「お前はあいつの彼氏だからな。人の女に手ぇ出したんだ、黙ったままじゃ卑怯だろ」

『女』かよ……お前の中で、ハロはもう生徒じゃないわけか。
胸の辺りがざわついてくる。

「お前、今彼女いないのかよ」

『お前』と呼ばれたニールが、何故か一瞬微笑んだように見えた。

「随分前に別れたよ。ニ年近く前にな。それより怒らないのか? ミハエルは」

ニ年か……そうだ、そのくらいだろう。
少なくともコイツは、ニ年も前からハロの事を好きだったわけだ。
よく覚えている。
ニールが度々、ハロを見ていた事を。 
そしてあいつも同じように、ニールを見ていた事も。

「アンタこそずっと俺の事ムカついてたんじゃねえの? あいつと付き合い始めてさ。この前も凄げえ目で睨まれたし」

ついこの間、階段でハロを抱き止めたコイツの腕を振り払った俺を、睨みつけた時のこの目。
あの時も嫌な予感はしていた。
あの時だけじゃない……もっと、ずっと前から。

「お前達はお互い好きだから付き合ってんだろ? ハロはお前が好きなんだから、仕方がないことだ」

言葉を切ったニールは顔を強張らせている。
違う……ハロが本当に好きなのは、俺じゃない。
ずっと前から気付いてた……ただ、認めたくなかった。
あいつを誰にも渡したくなかったから。
ニールの硬く低い声が耳に届くと、物凄い勢いで頭に血が上っていくのが自分でもはっきりと解り、俺はわざと目の前の男の怒りを買うような言葉を吐いた。

「……俺さ、ハロと何回もセックスした。つか、あいつの初めて俺だし、何度もハロを抱いた」 

腹の底から苛々した感情がこみ上げてくる。
全身が総毛立つような。
こんな気持ちは生まれて初めてだ。

「そうだよな、仕方ないよな。お前は教師であいつは生徒だ。だけど俺とハロは付き合ってるんだから、セックスしてもいいわけだ。ちゃんとゴム付けてしてるし。それに俺はハロと付き合ってから他の女なんか相手にしてねえし、あいつだって俺以外は求めないって言ってくれたしな!」

俺は今、どんな顔をしてこんなことを口にしているのだろう。
ニールは何も言わずに俺を見つめているが、その目は無理に平静を装っているようにも見える。
余裕ぶりやがって……大人の男を気取ってるつもりか?
それとも、まさか今さら教師面か?
目の前の男がムカついてしょうがない。
『仕方がない』なんて言うコイツが。 
ハロが本当に求めてるのは、お前なのに。

「なんだよ……俺に何か言う事ねえのかよ。ハッ、別にいいぜ? キスの一回くらいどうって事――」
「うるせえよ」

俺の言葉を遮るかの反応。
今まで聴いたこともない低い声と鋭い眼差しが俺に向けられる。

「ああ……ムカついてるぜ? はらわたが煮えくり返りそうだよ。本当はお前からあいつを、ハロを奪ってやりたい。無理にでも自分のものにしちまいたい。ハロがお前を求めてても、力尽くでな」

眉間に皺を寄せ、まるで威嚇するような目つきで睨むこいつは、もう大人とか教師とか一切考えていない、独りの男の顔だった。

「あんなことしたんだ、もう教師辞める覚悟できてるぜ? だからこうしてお前を呼び出したんだよ」

俺は何も言わず、じっとニールを見つめた。
長めの前髪が目元に落ちかかっている。
その奥の瞳は真っ直ぐだ。

「だけどな……無理矢理奪っても、ハロが傷付くだけだ。あいつはお前のことが好きなんだからな」

一瞬顔を歪ませて、今までずっと逸らすことのなかった眼差しをすっと外した。
らしくない、ぎこちのない視線。
俺は黙ったまま何も言うことができなかった。
酷い自己嫌悪……やっぱり俺はただのガキで、少なくともニールは俺よりずっと大人だ。
ハロが好きで。
セックスして。
一緒にいたくて。
だから、自分以外を求めて欲しくなかった。
だけどそれはただの自分勝手なエゴで、本当の愛情は……。
気持ちを整えようと一度大きく深呼吸をした俺に気付いたニールの顔が、少しだけ不思議そうな表情に変わる。

「……あいつさ、さっき俺に何回も謝りながら泣いたんだよ。すげえ勢いで。初めて見たんだ、ハロの泣き顔」
「そりゃあ俺にあんなことされたんだ、それでお前に謝ったんだろ。そんな勢いで泣かれたとは、俺もショックだけどな……」
「違うって。解るんだよ、俺には。あの『ごめん』は、もう俺とはキスもセックスもできないってことなんだよ」
「……俺にキスされて、そこまで傷付いてるのか?」
「違げーよっ! ハロはもうずっと前からお前のことが好きなんだって!」

目の前の男は、途端に眉を寄せて俺をいぶかしむ。

「何だよ、それ」
「だから、あいつもアンタと同じってことだよ。ハロはその事に気付いてないけどな」

ニールは俺の顔を覗き込んだあと、溜め息をつきながら軽く頭を横に振った。

「そんなわけねえだろ? 逆に嫌われてるよ。あいつが俺を見る目、何考えてるのか全く解らねえし」
「だからだよ! ハロってさ、異常に親とか大人が嫌いだろ? 親から可愛がられた事なんて一度もないし、小さい頃からいつも一人だったって言ってた。周りにいる大人達はみんなあいつんちの親の金目当だったから、信用できる人間が一人もいなかったらしい。多分あいつは、愛情ってものがよく理解できないんだと思う」
「……そうか」
「とにかくハロの大人嫌いは半端ねえんだけどさ……それなのにあいつ、あんたの事はずっと見てた。二年間ずっと」

ニールは何かを思い出している様な表情をしたまま、口をつぐんで喋らなくなった。
真剣な面持ち。
もしかしたらこの二人には、俺の知らない何かがあるのかもしれない。
互いに自分の感情をも上回ってしまうような、特別な何か、が。

「好きなんだろ? 俺から奪って見せろよ、ハロを」
「生徒に手ぇ出しといて、教師続けろっていうのか?」
「辞めたからってどうなるんだよ。あいつを諦められんのか? あいつ泣かしてそのままかよ!」

いつの間にかニールを励ましている俺は、自分でも呆れるほどの相当馬鹿な男だ。
心底惚れてる自分の女を『奪え』なんてけしかけて。
後で後悔するかもしれないし、最後まで気付かないフリをした方がよかったと思うかも知れない。
それでもハロが求めるなら、ハロが求めてるから、あいつのためなら。

「……教師は辞めれても、ハロのことは諦められそうにねえな」

切な気に目を細めて小さく笑った男は、俺でさえどきりとするほど格好が良くて、堪らなくなり視線を逸らせた。

「ほらよ」

自分の携帯を放ると、それを片手で受け取ったニールが不思議そうな表情でゆっくりと瞬きをした。

「ハロに掛けてみろよ。俺からだったら出るかも」

ニールは少しだけ戸惑ったように携帯を見つめたが、決心したのか、すぐに真剣な眼差しを俺に向け直した。

「すまないな、ミハエル」

馬鹿野郎、謝るなよ、お前のためじゃねえ……ハロの一番じゃなくなるのは辛いけど、俺の中ではハロが一番なんだよ。
ニールはすぐに携帯のボタンを操作して、それを耳にあてる。
しばらくして伏せていた目を上げ、視線を送ってきた。

「悪いな、ミハエルじゃない。俺だ」

ハロが携帯に出てくれた事にほっとする。
ディスプレイには、俺の名前が表示されているはずだから。
そして、そのまま黙って席を離れる。
後は二人で確認し合えばいい。
背後から微かに聞こえたニールの声が、ハロに『好きだ』と告げている。
今までに味わったこともない、張り裂けるような胸の痛みを感じ、顔が歪む。

「……ハッ……」

あいつへの想いがそう簡単に断ち切れるわけがないと、無意識に渇いた笑いが込みあがる。
それでも、もう二度と元には戻れない現実を受け入れろと自分自身に言い聞かせるしか、この想いを断ち切る術はないのだ。




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