Immorality (1)

……また、この目だ。
ニール・ディランディの、私を見るこの眼差し。
この瞳に見られるのは苦手だ。
吸い込まれそうなほど綺麗な碧。
それなのに、まるで胸の奥底まで見透かされそうで、何だか居心地が悪い。
整った顔に笑みを浮かべているが、私を見下ろしているその目はいつもと同じで、決して笑ってはいなかった。

「ハロはちゃんと前見て歩いてるのか?」

階段を降りようとして一段踏み外してしまった私の身体は、タイミングよく後ろから現れたニール・ディランディに抱き止められていた。

「……先生これ、セクハラ」

なかなか離れていかないニール(生徒は皆、こう呼んでいる)の腕に、堪らず私はそう告げる。
胸の膨らみのすぐ下に回された腕はとても力強く、無理に平静を装ってはいるが、まるで後ろから片腕で抱き締められた体勢に心臓の音が乱される。
引き寄せられているかのように感じるのは流石に私の気のせいだろうが、大きくなっていく胸の鼓動に気付かれるのが嫌で、早くこの腕を放して欲しかった。

「早く放せよっ! このエロ教師っ!」

一緒にいたミハエルが私の身体に回されたままのニールの腕を振り払うと、彼はいつもより低い声と強い視線をミハエルに向けた。

「だったら、こいつに怪我させないように、お前がちゃんと見てやれよ」

彼氏だろ? と付けたして、すぐに階段を下りて行く。
その広い背中が視界から消えるのを見届けて、ほっと溜め息を付いた。

「……なんだよ。自分はずっとハロの事見てたような言い方しやがって」

そう呟いたミハエルは、私の肩を抱き寄せる。
もしかしたらミハエルの言う通り、ニールは見ていたのかもしれない。
いつも視線を感じるのだ……あの瞳の。
最初は、感じた視線にふと目を向けると、同じタイミングで逸らされていた。
その内視線が合うようになり、そして見つめられるようになった。
見つめられると言っても『愛しげに』とか『熱い眼差し』とか、そんな色っぽいものじゃない。
寧ろその逆で、冷ややかな、まるで何かを探ってくるような目で見つめられるのだ。
さっきみたいに他の生徒と同じ笑顔を向けられる事もあるけれど、私を映すその目はいつだって笑ってはいなかった。

「嫌われてるのかな……」
「ん? 何か言ったか?」
「何でもない。早く行こ? 玉子サンド売り切れちゃうし」
「おう! つか気を付けろよ、マジで」

私の髪にキスをして、ミハエルが階段を下りていく。
ついさっき、ニール・ディランディに抱き止められた場所がなぜか熱くなっているのを感じ、無意識に眉を顰めていた。



「いいなあ、ハロは。ニールに抱き締められて」
「別に、抱き締められてないから」
「あれは抱き締められたって言うの! みんな羨ましがってるんだからね!? 私もニールの前で階段から落ちてみようかな?」
「……やってみれば」

階段での一件を少し離れた場所から見ていたらしいクリスに同じ事を何度も聞かされて、いい加減うんざりする。

「どこが良いんだよ、あんなニヒル野郎!」

この話題のせいでミハエルはさっきから不機嫌だ。

「どこって全部だよ! 顔良し性格良しで、こんなに生徒の話も分かってくれる先生は他にいないしね。ハロとミハエルくらいだよ? ニールのこと嫌いなの」
「別に――」
「マジ大っ嫌え!」

ミハエルの大きな声に、私の言葉はかき消された。
そして目を細めたクリスが冷ややかな視線を送ってくる。
クリスの言う通り、ニール・ディランディは教師のくせに生徒に好かれていた。
あの教師らしくない容姿は女子に大人気だし、それをまるで解っていない気さくな性格が男子にも人気なのだ。

「なんでそんなに毛嫌いするの?」

理解できないと言いたげな表情のクリスに、ミハエルがわざと顔を顰めながら答えた。

「わかんねえけど……何となく嫌なんだよ! 俺の本能がそうさせる、みたいな?」
「馬鹿みたい。何が本能よ」

呆れ顔のクリスに、んだとコラ! と文句を言うミハエルを見て私は小さく笑うが、彼の言葉にさっきのニールを思い出した。
私の身体に回されたニールの腕を振り払ったミハエルに、彼らしくない強い視線と低い声を向けたニール。
普通なら……いつものニール・ディランディなら、あの言葉は笑いながら言いそうなのに。  

『だったら、こいつに怪我させないように、お前がちゃんと見てやれよ』

(私だけじゃなくて、ミハエルの事も嫌いなのかも……)

教師だって普通の人間だ。
気に入らない生徒の一人や二人いたとしても別におかしい事ではない。
きっと、嫌われているのだろう。
そうじゃなければ、私達をあんな目で見るはずがない。
……別に構わない。
教師なんて人種はウザいだけで、好かれていなくても何とも思わない。
ニール・ディランディだって、きっと他の大人達と何も変わりはしないのだ。
そう呪文のように胸の中で繰り返しながら、私は二年前のあの日を思い出して自分の右手に視線を落とした。





高校へ上がったばかりのある日、午前中に気分が悪くなった私は保健室のベッドで横になった。
一時間ほどで教室に戻ったが、しばらくして携帯電話を枕の下に入れたまま忘れてきてしまった事に気付いて、次の休み時間に急いで取りに戻った。
誰かに見られてしまうかもしれないし、下手したら先生に取り上げられてしまう。
そっと保健室の扉を開けると保健医の姿はどこにも見えなくてほっとするが、さっきまで私が横になっていたベッドを見ると、まずい事にそこで誰かが寝ている。
どうやらその『誰か』は男のようで、保健医の女医ではなかったが、制服を着ていないから生徒でもないのだろう。
仰向けに横たわっている大きな身体は、随分と身長が高いことを予測させる。

(……最悪。何処かのクラスの先生かも)

静かにベッドに近付いて寝ている人物を確かめた私は、見つけた先にある寝顔に思わず見入ってしまった。
少し乱れた長い前髪が色白の顔にかかり、何とも色っぽい。
同じ年頃の男にはない大人の男の艶やかさを感じさせる。
ひとつひとつのパーツがバランス良く整っている。
そう言えば私達と同じく四月から赴任してきた先生に、格好良い人がいると女子が騒いでいた。
もしかしたら、この人がその先生なのかもしれない。
無意識のまま、更に近付いて寝顔を眺めた私は、腕を伸ばしてその綺麗な顔にかかっている前髪を指先でそっとはらった。
そして引き寄せられるように軽いくせのあるブラウンの髪に指を差し込んで、優しく梳くように撫ぜた。
指先から伝わってくるその感触は柔らかくて、とても触り心地が良かった。
髪に埋もれた自分の指と目を閉じたままの男の顔を交互に眺めると、そこから目が離せなくなってしまい、どこか恍惚とした気持ちにさえなる。

(気持ち良い……)

何度かそれを繰り返していると、僅かに目の前の唇が動いたような気がして、それを見た私は思わず我に返る。

(私、何してるの? 起きてたらどうする気!?)

今頃になって自分のしたことに心臓が大きく跳ね上がり、慌てて差し込んだままの指を引き抜いた。
そして横たわっている男の大きな手のひらの中に、自分の携帯電話が握られていることに気付く。

「……せんせ」

小さな声でそう呼んでみたが、返事は返ってこない。
やはり眠っているのだ。
私は男の手からそっと携帯を取り出して、振り返る事なく逃げるように保健室を後にした。
   




「――だろ?」
「……え?」
「だから、ハロはあんな奴よりモチロン俺の方がいいだろ? そうだよな、なんせ彼氏だもんな!」
「はいはい。ま、そんなこと言ってくれるのはハロだけだよ?」

嫌味っぽく言ったクリスがごちそうさま、と付けたして席から離れていった。
のぞき込むような視線を向けてくるミハエルに、私は笑顔を作って見せる。

(そういえば……)

ミハエルと付き合い始めた時期と、あの視線を感じ始めたのは同じ頃だったような気がする。

(……ただの偶然でしょ)

あの時、手を伸ばしてしまったのは、ただの好奇心。
見た目の良い男の寝顔が、ただ単にめずらしかっただけ。
未だに残っているあの柔らかだった感触を消すように、私は自分の右手をぎゅっと握りしめた。





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