I Love (2)

私達はあれ以来、仕事上の会話以外まともに言葉を交わさない日を続けている。
あの翌日、朝から待ち構えていた彼が必死になって謝罪したその言葉を撥ね付けるように、私は口元にわざとらしい笑みを浮かべて見せた。

『気にしてませんし、これ以上あなたに係わるつもりもありませんから』

次の言葉を飲み込んで押し黙ってしまったライルにそのまま背中を向け、その後も目を合わないまま今日に至っている。
ほんの少しのアルコールで悪ふざけをする方もどうかと思うが、年下の同僚に誘われたくらいで柄にもなく浮かれ、いくら恋愛経験が乏しいとはいえわずか数時間でライルに強く惹かれてしまった自分が、情けなくて惨めだった。
遠くからこちらを伺っている視線を度々感じたが、向こうからも必要以上に話しかけてくることもなくて、ライルは明日、出向の期限を終えて本社に帰ることになっている。
報告書に目を通して欲しいと定期的にデスクまで訪れていた彼にもあれ以来顔を上げなかった私は、最後になった書類に視線を向けながら、今日もこのままやり過ごしてしまおうと考えていた。

「これで結構です」
「ハロ――」
「長い期間お疲れ様でした。これからも本社でのご活躍、期待しています」

呼ばれた声を遮るように一度頭を深く下げてから顔を上げて、久しぶりに視線を合わせながら薄く滲む程度の微笑みを見せる。
こちらを見つめたまま何かを告げたそうに歪んだ表情は、すぐ諦めのそれに変わった。

「……こちらこそ、ありがとうございました」

頭を下げ一礼したライルがすぐに背を向けて歩き出すと、胸の奥につきりとした痛みが走る。
柔らかそうな栗色の髪が首筋に流れた背中は広く、それだけで十分に女性の目を惹きつける後姿を見送りながら、私が彼の名前を呼んだ時に見せたあの日の嬉しそうに笑った顔が、突然頭の中に浮かんできた。
もう二度と、言葉を交わすこともないのだろうか。
偶然本社内で会う機会があったとしても、お互い話をする気持ちにはなれない事など解りきっていた。
痛みだけではなく息苦しささえ感じている自分の胸にそっと手のひらを当てながら、もしあの時彼を拒まなければ一体どうなっていたのかと想いを巡らせてしまう。

「格好良いですよね。ライル・ディランディ」

突然上から聞こえた声に驚いて顔を上げると、同じ部署で働いている女の子が遠くなった彼の姿を名残惜しむように眺めている。
可愛らしい顔立ちの彼女は男性社員の間で人気ナンバーワンと噂されていて、どうやら本人もその事を自覚しているようだった。

「完璧ですよね、みんな本当に憧れてましたから。仕事も出来て容姿端麗。あんな人が彼氏だったら、毎日がバラ色なんでしょうね」

うっとりとした瞳は濡れたように輝いて、同姓の私の目にも彼女は十分魅力的に見えるのだから、男達の目にはさぞかし美しく映っているのだろう。

「あなたにそんなこと言われたら、さすがに彼も放っておかなかったんじゃない?」

半分は彼女に対するお世辞、それでも残りの半分は、若く美しい彼女ならライルの隣を歩いても絵になるだろうと思った私の本心だ。
すると少し戸惑ったように苦笑いを浮かべた彼女が、喋る声を潜めながら顔を近づけてきた。

「ハロさんだから言っちゃいますけど……実は、彼に『飲みに連れて行ってください』って誘ったのに断られちゃったんですよ。しかも二回。信じられます? 女の子の誘いを二回も断るなんて。しかも昨日ですよ? 本社に帰っちゃうから勇気を出してもう一度誘ったのに!」

言葉の最後はどうも納得がいかないと言いたげで、その声には多少の怒気が含まれているようだ。
確かに彼女の言うとおりだし、大抵の男ならこのくらい魅力的な女性から二回も誘いを受ければ、断る方がどうかとも思う。

「……あの噂、多分本当なんです」
「噂?」
「本社の同期の子に聞いたんですよ。ライル・ディランディはずっとひとりの女性を想い続けているらしいって。だからここ何年かは彼女を作っていないらしいんですよ。でも、あんなに格好良い人が片想いなんて有り得ないから単なる噂だと思ってましたけど、意外とそうなのかなって」
「ライルが片想い……」
「ライルさんに想われてる女の人って一体どんな人なんでしょうね。きっと物凄い美人ですよ」

呆けたようにぼんやりとしてしまった私の顔を訝しげに覗き込んできた視線に気付き、慌てて頷きながら笑って見せれば、私の話は内緒ですよ?と素早く耳打ちをして、彼女はデスクから離れていった。
ライルには、何年も想い続けた人がいる。
どんな人だろう、どんなに綺麗な人なんだろうと、頭の中で同じ疑問を繰り返し続けている自分にふと気付いた時、彼よりも年上なのにキスの一つであんなにもうろたえてしまった自分があまりに滑稽で、思わず小さな笑い声が唇から漏れていた。
きっとライルにとってあのキスは、本社を離れている間の、遊び程度のものだったのだろう。
酒を飲んだ勢いから、ついふざけてしまっただけのことだ。
もう誘われることも、言葉を交わすことも二度とないのだと何度自分に言い聞かせても、胸を刺すような痛みは治まらず、その痛みは次第に強くなるばかりだった。




重い足取りで本社へと戻ると、上司からの労いといくつかの酒の誘いが俺を待っていた。
俺の評価がかなり良かったと向こうの上役から連絡があったらしく、出向することに初めは不満を漏らしていた上司も今は満足気な顔をしていた。
女の同僚からの誘いはいつも通り上手く断りながら、親しい同期からの誘いにも乗る気分にはなれず、今日は真っ直ぐ帰宅すると告げて声を掛けてきた相手にすまなさそうな表情を向ける。
仕方ねえなと不満げな顔をした同僚は、何かを思い出したように軽薄そうな笑みを浮かべた。

「それよりどうだった、支社にも可愛い子いたか?」
「……ああ。まあな」

正直どんな女の子がいたかあまり記憶に残ってはいなかったが、俺はその場を取り繕うように曖昧な返事をする。

「そういえば、俺達よりいくつか年上の女課長いたろ?」
「ハロ……さんか?」

俺の声が不自然に素早くその名前を呼んだことには気付かないらしく、そいつが大して何かを気にする様子はない。

「そうそう、ハロさんな! この前一緒に飲んだ女の子から聞いた噂だけど、近いうちに取引先の営業部長と見合いするらしい。何でも一族で経営してる会社の長男で、そこの社長……まあ父親が、彼女のことをかなり気に入ってて随分と乗り気だって話だ」
「見合い……」
「結構大きな取引先らしいから、支社からすればこの見合いがまとまればおいしいんじゃねえの? ハロさんも玉の輿に乗れるし、この話は決まったようなもんだってその子が言ってたぜ?」


  
一人暮らしのマンションに帰るとすぐにバスタブに湯を張り、浴槽の中に身体を沈めゆったりと手足を伸ばす。
慣れない仕事を終えて明日からはまた従来の本社勤務に戻れると思い、どこか安堵したような開放感から軽く溜息を漏らすと、つい思い出してしまうのはやはり彼女のことだった。
プロジェクト内容の一つだった営業部の若手指導には、自ら志願した。
支社への出向にやたら積極的な俺を周りは不思議に思い、上司からはお前が行くことはないと止められもしたが、こんなチャンスは二度と巡ってはこないだろうと考えたからだ。
結果、興味もない女に誘われてばかりで、肝心のハロには嫌われてしまった。

『気にしてませんし、これ以上あなたに係わるつもりもありませんから』

皮肉を込めた微笑みと完全に拒否された言葉が頭に焼きついていて、今更ながらあの稚拙なキスを思い出すと酷い自己嫌悪に陥る。
年上の彼女にあんなにも大人気ない真似……同年代の男さえ相手にしてこなかったハロが、年下の俺にガキ臭いキスされて。

『……そんなに、軽い女じゃない』

そんな事は分っている。
軽い女じゃないと分っているからこそ、俺は――。
彼女より年上で、しかもステイタスも備えた男との見合い話をハロは受けるのだろうか。
むしろ断る理由もないだろう。
引き攣るような胸の痛みを誤魔化すように掌ですくった湯を思い切り顔にかぶせ、雫の滴り落ちる前髪を後ろに撫で付けながら、もう一度大きく息を吐き出す。
このまま、諦められるのか……?
そう自分に問えば、誤魔化しなど効かないくらいに胸の痛みは強くなるばかりで、どしようもないこの感情に俺は険しく眉間を寄せていた。

  
風呂から上り、冷蔵庫から冷えたギネスを一本取り出してソファーに腰を下ろすと、テーブルに置いてある目の前の携帯から着信音が鳴り出した。
俺は眉を顰めながら携帯を手に取ると、ディスプレイに表示されているのは双子の兄の名前で、それを見た俺は無意識に小さく舌打ちをする。
兄はこっちが暇を見つけてメールや電話をしても返事をしてくれない事が多いくせに、大抵こうして俺が兄さんと話をしたいと思った時、見透かしたかのように連絡をしてくる。
いつもながらのタイミングの良さは嬉しい反面、自分は何をしても兄には適わないのだと、こんなところにさえコンプレックスを感じてしまう。
わざとゆっくりプルトップを開け、一度ギネスに口を付けてから通話ボタンを押した。

「……何だよ?」
「兄貴に向かって何だはねえだろ! どうだライル、元気にしてるか? 仕事はどうだ? ちゃんと飯食ってるか? 煙草吸い過ぎてねえか?」
「相変わらず質問ばっかでうるせえな! そっちはどうなんだよ、どうせいまだに俺には話せねえような胡散臭い仕事でもしてるんだろ?」
「まあそう言うなって。俺は俺で、何とかやってるよ」
「それなら……別に構わねえよ」
「ん? どしたライル」
「……」
「何かあったか?」
「……例えばさ、兄さんがずっと手に入れたいものがあったとして、それがどうしても手に入れられないものだとしたら、あんたは諦めるか?」
「いや。俺は諦めねえな」
「無理かも知れねえのに?」
「ああ」
「兄さんは出来が良いからな……俺とは違う」
「ライル、よく聞け。俺達は双子なんだぜ? 俺の出来が良いと思うなら、お前さんだってそうだろ? 俺から見てライルは本当に出来の良い自慢の弟だ。だから絶対に諦めるな」
「……」
「四の五の言わずにやりゃいいんだよ。んでもって、早いところものにしちまえって!」
「ったく……こういう時のアドバイスだけは相変わらず強引だな。つうか、なんで女だって分かるんだよ」
「ははっ、大事な弟の事は何でも分かっちまうもんなんだよ!」
「……嘘くせえ」
「しかしお前さんが惚れるくらいだ、随分といい女なんだろうな」
「ああ、すっげえイイ女」

今は離れて暮らす、小さな頃から俺の憧れだった兄。
もしかしたら離れ離れでいることが、俺達の絆を余計に深めているのかも知れない。
こうして話をするたび、俺達が双子として生まれてきたことに言葉には出来ないほどの嬉しさを感じながら、俺は陽気な兄の声を聞いていた。
毎回然程長くはならない会話を終えると、まだ冷たさの残るギネスを一気に飲み干して咥えた煙草に火をつける。
話の内容はともかくとして、もう何年も想い続けたハロを簡単に諦めることなど出来やしないと、兄の言葉が気付かせてくれた。

『早いところものにしちまえって!』

深くソファーにもたれながらくゆる煙を眺め、頭の中に残ったまま離れないその言葉を、俺は繰り返し考えている。
兄のそれが冗談なのか本気なのかは解らないが、存外その言葉通りなのかもしれない。
……どうしても欲しいなら、奪えばいい。
他の男に持って行かれるくらいなら、俺は奪ってでもハロを手に入れる。
 



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