霧島司

「失礼致します。お客様、ラストオーダーは二十三時までになりますが」

突然、真上から下りてきた声にハロは顔を上げた。
目の前に見えたのは、綺麗なアイスブルーの瞳。
落ち着いた雰囲気の照明が背の高いウエイターのさらりとした蜂蜜色の髪を照らしていた。

「もし宜しければ、こちらを。カモミールのハーブティーです」

空気をはらんだ優しい声が耳に滑り込んでくる。
腰を屈めたウエイターがゆったりとした動作で、テーブルの上に湯気の立つティーカップを置いた。
清潔そうな真っ白いシャツと黒いギャルソンエプロンが良く似合う、そのウエイターを一言で言い表すなら『かなりの美形』以外に無い。
日本人の平均を軽く上回っている長身。
シャツの上からでも引き締まった身体のラインが充分に分かる。
少し長めの髪は後ろで束ねられ、耳元に掛かった髪の隙間には小さなピアスが覗いていた。
モデルの仕事が本業、そんな言葉を彼の口から聞かされても、きっと誰もが納得してしまうだろう。
目が合った途端、すぐにふわりと微笑んだ青年の表情があまりにも柔らかだったから、ハロは思わず見惚れてしまいそうになる。
駅に隣接したモール内にあるダイニングカフェの店内は、午後十一時になろうとしているのにも関わらず、未だ大勢の客で殆どの席が埋まっていた。
周りに居る多くの女性客の視線が青年に注がれている。
きっと、このウエイター目当てに店へと通っている客が少なからず居るはず。
そう感じ取り、青年の言葉にハロはおずおずと応えた。

「私、オーダーしていませんが……」
「勿論、このハーブティーの支払いは俺がします。もしカモミールが嫌いでしたらレモンピールをお持ちしますが」
「嫌いでは、ないです。でも……」
「……君がずっと泣き出しそうな顔、しているから」

整った顔が微苦笑を浮かべ、それだけでハロの心臓は大きく跳ね上がった。
泣き出しそうな顔? 私、そんな変な顔してた?
咄嗟に俯いてしまうと、ハロには目線の先にあるカモミールティーの優しい金色が、青年の蜂蜜色をした髪と重なって見える。
緩やかに流れるジャズのBGM。
遠くで聞こえる客同士の会話。
陶器がかちゃかちゃと当たる音。
二人の間に暫く沈黙が続く。
突如、青年がテーブルの上のペーパーナフキンを一枚引き抜き、胸のポケットからペンを取り出すと手にしたトレイの上で何かを書きとめ始めた。

「信じては貰えないかも知れないが、こんなことをするのは生まれて初めてだ」

言いながら、筋の浮いた長い指先がハロの目の前に差し出すように、文字の書かれたペーパーナフキンをテーブルに乗せる。
それ以上は何も言わず、すぐに離れていった広い背中を、ハロは魂を奪われたようにただ見送るしかなかった。

『霧島 司 090-XXXX-XXXX』

この名前と数字の羅列は本物なのだろうか。
それとも、彼にからかわれたのだろうか。
きりしま つかさ――……。
今まで経験したことが無い程に、ハロの胸は高鳴っている。





Prince Republic(プリンス リパブリック)に所属している二組のアーティスト、3 Majesty(スリー マジェスティ)とX.I.P.(エグジップ)が共演したドームでの3DAYS LIVEは大盛況のまま幕を閉じた。
どちらのユニットもファーストに続きセカンドシングルでもミリオンヒットを記録、今回のライヴでの総動員数もおそらく十五万人を超している。
王道で夢を与える正統派ユニット、3 Majestyのリーダーを務める霧島司は、楽屋に戻るなりその見た目に相応しい物腰で、音羽慎之介と辻魁斗、二人のメンバーに心から労いの言葉を掛けた。
今まで以上に最高の3 Majestyをファンの皆に見て貰えることが出来たのは、彼等と大勢のスタッフのお陰だ。
シンとカイト、二人が居てくれたからこそ、この三日間のライヴで自らも大きく成長出来たと胸を張れる。
そう感じるのと同時に、霧島はX.I.P.のメンバーにも感謝していた。
3 Majestyとは全く本質の違う、野性味を効かせた彼等のダンサブルなパフォーマンスには、同性ながら毎回魅せられてしまう。
互いに刺激し合い、己のユニットの質を常に高めて行こうと思わせてくれる好敵手、それがX.I.P.だった。

「ねえ隊長。ドームライヴも無事に終わったことだし、早くハロちゃんに会いに行かないと本当にフラれちゃうよ?」
「もしハロにフラれたら、この先一生彼女出来ないと思うけど。それでもいいの?」

未だ眩いほどの白い衣装に身を包んだまま、額の汗をきらきらと輝かせた音羽がふんわりとした口調でそう言うと、汗で頬に張り付いた前髪を後ろへと掻きあげた辻もぞんざいな物言いで年上の霧島をからかう。
自分のプライベートを理解してくれている二人の言葉は有難いが、霧島はあえて大袈裟に溜め息を付いて見せた。

「ライヴの打ち上げにこれからの戦略ミーティング。どうして俺がこの場を離れられる」
「ここでも『王子たれ』?」
「……死ぬまで独り者決定」

二人はあからさまに不服そうな視線を送る。

「今まで以上に大きな手ごたえを、僕は今回のライヴで確かに感じることが出来たよ? ただ一人の女の子を愛している、この自分の気持ちを大切にしながらね。それじゃあいけないのかな」

胸に手のひらを当ててどこか切なげに瞳を細めた音羽にこそ、王子という呼び名がしっくりくる。
霧島は頭の片隅でそう考えながらも、さらりと爆弾発言をしてみせた音羽に向かい、形の良い眉を顰めて問いかけた。

「……シン。『ただ一人の女の子を愛している、この自分の気持ち』の、女の子とは誰だ?」
「あれえ? 僕言っちゃった? でもまだ秘密」
「シンくん、ずりー。てか二人ともずりーよ!」

口を尖らせて近くのソファーにどさりと腰を沈めた辻を、音羽が優しい声音で諭す。

「カイトにも、きっと現れるよ。カイトにとって、たった一人の女の子が。隊長にとってのハロちゃんみたいな子が、ね?」
「……ハロみたいに料理上手な子がいい」

ぼそりと呟いた辻の言葉に霧島は思いがけず苦笑を零した。
プライベートではハロも弟と慕っている年下のメンバーの、そんな些細な言葉にさえ一瞬でも焦りを覚えてしまった、自分の心情に対しての苦笑だった。
あんなにも葛藤していた思いが一瞬のうちに消え去っている。

「シンもカイトも、二人は本当に俺のことを良く理解してくれているな……感謝のしようもない」
「うん。今頃分かっちゃった?」
「後のことは俺等に任せなよ。霧島君の分も打ち上げ楽しんでくるからさ」

端整な顔が自嘲気味に微笑む。

「……すまない。俺は今からハロに逢いに行く」

どこか甘さを残した顔は、決して男らしさも失ってはいない。
僅かに口角が引き上げられ、緩やかなカーブを描く唇。
もう迷わない、綺麗な二重の瞳には、そんな意思の強さが感じられる。
それには、音羽も辻も、思わず言葉を詰まらせるほどだった。



デビュー前、霧島は学費と日々の生活費を稼ぐためにウエイターのアルバイトをしていた。
彼が勤めるカフェに客として訪れたハロに、霧島は自分でも驚くほどの強引さで自ら連絡先を教えた。
初めてだった。
自分から女性にアプローチをしたことも、勿論、一目惚れをしたことも。
二人が付き合い始めてから三年の間に、3 Majestyのリーダーとして霧島はデビューを遂げ、今彼等はトップスターへの道を邁進している。
以前から、ハロが二人の関係に悩みを持ち始めていたことに霧島は気付いていた。
自分達なら、きっと乗り越えて行ける。
そうあえて言葉にしなくても二人の明るい未来を信じていた矢先、ハロに別れを切り出されてしまった。
ドームライヴ開始一ヶ月前のことである。
芸能界という表舞台に立っている自分への想いが、彼女に別れを告げさせたのだと信じたい。
一緒に過ごせる時間が限られていく中、自分以外の誰かにハロの心を奪われやしないかという不安が、常に霧島の心の片隅に付きまとっていた。
地下駐車場に止めてある愛車に乗り込み、シートベルトを締める。
すぐにキーを回し、ハンドルを切った。
助手席に一瞬だけ視線を移す。
隣で明るく笑うハロの顔を思い浮かべた霧島は、彼女のマンションに向かってアクセルを踏み込んだ。





午後十時十五分。
ライヴは無事に終了しただろうか。
司のことだ、3 Majestyのリーダーという役割をしっかりと努め、三日間のドームライヴを無事成功させたに違いない。
テーブルの上にある3DAYS LIVE最終日のプラチナチケットを眺め、ハロは深い溜め息を付いた。
一般人には入手することが出来ないそのチケットは、十日程前、マンションのメールボックスに直接入れてあった。
結局、無駄にしてしまったけれど……。
彼はもう、眩い光の中だ。
この先も光の射す方へ、真っ直ぐに進んでいく。
モデル並みの容姿と優しくて透明感のある歌声。
その歌唱力はアイドルの枠を超えてアーティストと称されるほど。
誰よりも司を応援したい。
この先も、ずっと。
だからこそ、もう終わりにしなければいけない。

「……嫌われた、よね」

つい独り言を呟いたハロは唇を噛むと、自分の想いを振り払うように軽く頭を振る。
ライヴ公演間近のタイミングに合わせて別れを切り出したのは、霧島に考える時間と余裕を与えないためだった。
優しい彼に選択権を与えるようなことはせず、一方的に別れを告げた。
着々と進んでいくライヴの準備でプライベートに時間を割けられない状況の中、それでも霧島からは日に数度の着信と別れの理由を尋ねる内容のメールが送られてきたが、ハロはその度に『もう終わりにしたい』と、短い文面のメールを返信した。
結果、ライヴが始まった一昨日からは着信もメールも来ていない。
きっと自分勝手な女だと嫌われただろう。
ハロがもう一度大きな溜め息を付いた時、インターホンの音が鳴り響いた。
こんな時間に訪れる人物には心当たりがなく、不審に思いながらモニターを覗く。
すぐにハロの頭の中は真っ白になった。

「……司?」

目の前のモニター画面には霧島が映っている。
今夜はライヴ最終日だ。
そんなことはありえないと考えを巡らせていると再びインターホンが鳴らされた。
ハロはすぐに通話ボタンを押した。

「司なの?」
「ハロ、君に会いたいんだ。顔を見せて欲しい」

この声は確かに霧島だ。
今までに見たこともないような切羽詰った真剣な表情をしている。
普段から使用している黒いセルフレームの眼鏡は掛けているものの帽子もサングラスも着けてはおらず、これではひと目で3 Majestyの霧島司と判ってしまう。

「どうして? ライヴは……」
「ライブは無事に終わった。お願いだハロ、ここを開けてくれ」

もしもエントランスに誰かが居たら騒ぎになってしまうかも知れない。
ハロは反射的にオートロックを解除すると、モニターに映る霧島の顔が安堵の表情を見せた。
反対に、ハロの顔には不安と動揺の色が浮かぶ。
まさかライブが終わった後に訪ねて来るなんて思いもしなかった。
一ヵ月前に一方的な別れを告げて、そして……。
つきりと、胸の奥に痛みが走る。
チャイムが鳴った。
流石に逃げ出すわけにもいかない。
玄関に向かってすぐにドアを開けると目の前に霧島の姿が現れる。
やはり何の変装もしておらず、ハロは更に不安になった。
3 Majestyにとって今は大切な時期である。
やはり自分の存在は彼等にとって災いでしかないのだろうか。
何か言わなくては、そう思った途端に霧島の大きな身体が玄関内に入り込み、ドアの内鍵を閉めた。

「ハロ」

呼ばれても返事をすることさえ出来ずにハロは俯く。

「正直に答えて欲しい。ハロは、俺以外の誰かを……好きになった?」

さらりと髪を撫でられて、身構えた小さな肩がぴくりと跳ねた。
ハロは首を横に降る。
霧島の大きな手のひらがハロの両頬を包み、優しく顔を上げさせた。
綺麗なアイスブルーの瞳が真上から、ハロの黒い瞳を覗き込んでくる。

「本当に? 俺はずっと不安だった。会えない日が続けば続くほど、ハロを誰かに攫われてしまうような気がしていた」
「そんな……私は……」
「俺はハロを大切に想ってる。誰よりも、何よりも」
「司……」
「だから離したくない……離さない、絶対に」
「つか、さ……?」

いつもの柔らかな眼差しとはまるで違う、その瞳の中に吸い込まれてしまいそうなほどの力強さを感じ取ったハロの身体が無意識に震えた。
すぐに吐息が下りてきて唇が重なる。
熱を持った霧島の唇が繰り返しハロの唇に重ねられ、半ば強引に舌を絡め取ろうとする。
ライヴでの興奮が醒めきらない中、ハロの身体を壁に押し付け、霧島は久々にその小さくて柔らかい唇を十分に味わった。
この甘やかな感触は自分だけが知っていればいい。
もう歯止めが効かない。
効かせるつもりもない。
上に反らされたままの白い喉が苦しげな声を漏らすから、余計にざわざとした欲望が背筋を駆け上がっていく。
長いキスを終わらせた霧島は、これだけではとても足りないとハロを抱き上げ、真っ直ぐに寝室へと向かった。
彼女の身体をそっとベッドに下ろす。
長い指先が眼鏡を外して己のシャツのボタンを外しにかかる。
脱いだばかりのシャツを床の上へと無造作に落とし、すぐに逞しい上半身がハロの身体に覆い被さっていった。
肩から首筋、そして胸の上へとキスを降らせていけば、甘い吐息に鼓膜を擽られた。
ぶるりと身震いが起きる。
早くハロの中に収まりたくて堪らなくなる。

「すまない。俺は……ハロの前では王子でいられそうにない」

男らしくて広い肩幅ときゅっと引き締まった腰、目が合っただけでときめかずにはいられないほどの綺麗な顔立ち。
心臓がこれ以上無いほどに早鐘を打っていく。
腹部に圧し掛かる霧島を見上げ、ハロは自分の心臓がこのまま壊れてしまうのではないかとさえ思った。
一気に霧島が動く。
括れた細腰に腕を回し、奥深くまで。

「あ……、つかさ……っ」
「……はっ、ハロ……」

泣き声のような声を上げたハロの中が、まるで待ち焦がれていたかのように霧島を締め付ける。
大きく身体を揺らしながら、堪え切れないとばかりに形の良い唇からも艶やかな男の掠れ声が漏れた。
ハロの胸の上に霧島の汗が落ちていく。
互いに限界が訪れそうなことが分かる。
好きだ、ハロ……君だけを愛してる。
耳元で荒い呼吸が囁く声は、激しい鼓動が邪魔をして、ハロには聞き取ることが出来ない。
熱い精がハロの腹部を濡らし、彼女の意識はそのまますうっと遠のいていった。
乱れた息遣いのまま、ハロからの反応は返ってこないと分かっていてそれでも尚、霧島はその頬に瞼の上に、キスの雨を降らせていく。
それからもう一度、薄く開いたままの唇にキスをして、自分より幾回りも小さな身体を腕の中に入れた。
まだ収まりのつきそうにない感情に困り果てる。
例えようのない、この愛おしさを。
不意に何故か、初めて出逢った日の、泣き出してしまいそうだった彼女の顔を思い出し、霧島は笑った。
訊けば、ダイエット中でかなりの空腹だったと言う。
昔から、少女のまま大人になったみたいにハロは純真で。
彼女の傍は温かく、その笑顔を見ているだけで心が癒される。
ハロは自分の魅力に疎すぎる。
そんな無自覚さに、きっとこれからも翻弄されてしまうのだろう。
どれだけ時が流れても、この想いはあの頃のまま。
俺はいつだって、彼女の前では王子ではいられない。
出逢ったあの日から、今、この瞬間でさえ。
霧島は腕の中に感じる柔らかな存在を眺め、鮮やかな笑みを浮かべた。





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