10

“個性”の有る無しに関わらず、人々にとって『ヒーロー』は憧れの存在である。とりわけ男の子なら、誰もが一度はヒーローになることを夢見ただろう。
肉倉精児もその一人だった。彼は自らの“個性”を誇りに思っていたが、その不気味な容貌で、同級生に避けられる事も少なくなかった。時に虐めを受ける事もあったが、「ヒーローになる」という夢は一度も諦めなかった。夢が目標に変わった頃には、周囲を妬み嫉み、理不尽に憂さ晴らしをする事でしか己を慰められない者を反面教師として、自分の中に確固たる理想のヒーロー像を築き上げた。自分はそれになるのだから、周囲を飛び回る羽虫は気に留めてもいられないと、陰口も悪口も嫌がらせも、全て無視するようになった。そのような態度は、同級生からすればますます受け入れ難く、彼は孤立していく事になった。

だからこそ、中学に進級した時、クラスメイトの女子生徒――名字名前に、肉倉は本当に驚かされた。眼前で自分に喧嘩を売っていた男子生徒に何の躊躇いもなく蹴りを浴びせ、肩で息をしながらこちらを見る女子生徒。彼が何の反応も示さない事に次第に不安になったのか、やや眉尻を下げて「……もしもし?」と声を掛けてくる名前を、肉倉は相も変わらずその細目で見つめていた。反応しなかったのではない。反応できなかったのだ。

ただ単純に、彼女を美しいと思った。
肉倉精児にとって名字名前は、最も傍にいる『ヒーロー』だったのだ。




誰もいなくなった目の前の席を見ながら、肉倉は自身が中学生だった頃を懐古していた。試験の事もあって、柄にも無く傷心的になっているのかも知れない。すっかり氷が溶けてぬるくなったグラスの水を眺めながら、肉倉は短く息を吐いた。溜め息ではない。試験の時にも行なったような、自分の気持ちを静めるための呼吸だった。

肉倉に怒りをぶつけた名前は、彼が何か言う前に我に返った様子で「ごめん」と呟くと、逃げるように喫茶店を出てしまった。彼女が何をしたかったのか。そして、何をしてきたのか。今の肉倉は、全て理解してしまっていた。それは名前の優しさであり、残酷さでもあった。

ややあって、肉倉は席を立ち、喫茶店を出た。彼を見送る時の店員の目に、いくらか好奇が含まれているのに気付いて、しばらくこの店には来られないなと思った。しかし、それも瑣末な事であった。自分には、一緒に喫茶店に行くような友達がいないのだ。名前がそう思っているように。

駅に向かいながら、二年前もこのような寂々たる心持であったと肉倉は回想する。あの時は、自分の思い違いの所為で名前を困惑させてしまった――実際には、思い違いにさらに思い違いを重ねていたのだが。そして、そのまま別れ別れになってしまった。肉倉は、長らく後悔していたのだ。あの時、彼女に何も言わなかった事を。

だが、短いながらも月日が経って、名前と再会した。あの日、自分の腕を引っ張って歩く名前の後ろ姿を見ながら、肉倉は「絶対に振り解かれてなるものか」と思っていた。およそ一年離れていても、彼女は変わっていなかった。そして、胸を締め付けられる程に愛おしいと思った。

電車に乗り、目的の駅に着くと、人ごみに流されながら横断歩道まで来た。信号待ちをしながら、肉倉は制服のポケットから携帯電話を取り出した。




喫茶店から自宅まで逃げ帰った私は、ベッドの上で丸くなっていた。「私のしてきた事が全部無駄になる」――あのやり取りと、自分のトドメの一言で、肉倉君は悟ってしまっただろう。怒りに任せて言ってしまった事、そして、これまで善意でやってきたつもりの事が全て自己満足でしかなかった事を、私は後悔していた。泣けば楽になるものを、涙は一滴も出てこない。ただ心臓がギシギシと音を立てているのをじっと堪えた。

帰るなり床に投げたバッグから飛び出したスマホが、規則正しい振動で着信を告げている。とてもスマホを見る気にはならなかったが、あまりにもしつこく震え続けるので、そっと顔を上げて画面を確認し、そしてギョッと目を見開いた。

「肉倉君」と、ディスプレイには表示されていた。

そっと腕を伸ばし、スマホを取る。震えているのがバイブレーションなのか、それとも自分の手なのかも分からない程に緊張していた。慎重に指を動かし、スマホを耳に当てる。


『開けろ』


第一声は、単刀直入すぎて訳が分からない一言だった。


「……肉倉君?」
『御家族は不在か』
「何、言ってるの……」
『貴様の家まで来るのは中学以来だが、引越をしていなくて助かった。貴様に用があるので玄関の鍵を開けろ。即刻開けろ』


私は再びギョッとして、今度は部屋の窓に近付いた。その窓は、ちょうど自宅の家の前を覗き込める位置にある。そこには、もはや見慣れた士傑の学帽があった。


「……嘘でしょ……」
『嘘なものか。貴様が置き去りにしてくれたお陰で、恥辱を味わわされた』
「それはごめん」
『故に苦情を言いに来た。理解したなら玄関の鍵を開けろ』


彼は執念深いところがある。自分が玄関の鍵を開けなければ、しばらくはあの状態だろう。そうして近所のおばさんや同級生に目撃されて、妙な噂が立つのは困る。私は観念して、玄関に向かった。肉倉君には申し訳ないが、具合が悪い事にして、玄関で二言三言話を聞いたら帰ってもらおう。

……そう思っていたけれど、私はすっかり忘れていた。英語のテストで赤点を取る私なんかよりも、肉倉君のほうが一枚も二枚も上手だという事を。

意を決して玄関のドアを開けると、肉倉君はほとんど目の前に立っていた。思いのほか至近距離だった事に驚いた私を尻目に、肉倉君はドアの隙間に手を掛けると、その隙間から身体を滑り込ませてくる。そして、思わず距離を取ろうとする私の肩を掴むと、自分のほうに強く引き寄せた。肉倉君に抱きしめられるのは、これで三回目だ。背中に回された腕から逃れようともがく私の耳元に、肉倉君が唇を寄せた。


「動くな」
「……ヒーロー志望が、脅迫なんかしていいんですか」
「これは忠告である。私にかかれば貴様を窒息させる事など容易い」


脅迫じゃん、と思ったが、口にするのは止めた。制服を隔てて重なり合ったお互いの胸元が、激しく脈打つのを感じてしまったから。肌の触れ合うところ全てが熱くなって、私は俯く事しか出来なくなった。私が暴れるのを止めた後も、肉倉君は腕の力を緩めたりはしなかった。意を決して肉倉君の背中に両手を回すと、少し体を強張らせたけれど、唇の隙間から漏れるかすかな笑い声が私の鼓膜を揺らした。


「慰めか?」


「何の」と、すぐに聞き返す事はできなかった。喫茶店に置き去りにした事か。仮免試験に落ちた事か。それとも……。肉倉君の言う“慰め”は心当たりがあったけれど、少なくとも私にそんなつもりは一切なかった。私が何も言えずにいると、肉倉君は私の目を真正面から見つめてくる。またしてもキスの出来そうな顔の距離に私がぼんやりしていると、肉倉君は再び口を開いた。


「士傑生たる者、馴れ合いなど不要……この信念を改めるつもりはない」
「……うん、ごめん」
「それは貴様に対しても同じ所存だ、名字名前……私は貴様と“馴れ合っているつもりはない”」
「……?」


どういう意味だろう。処理が追いつかなくなった私をよそに、肉倉君は私を抱きしめていた両腕を解き、今度は大きな両手で私の頬を包み込んだ。瞬間、肉倉君の顔に、さっと赤みが差した。


「好きだ」


それは、彼が口にするにはあまりにもシンプルな言葉だった。

私はどんな顔をしていただろう。少女のように頬を赤らめただろうか。それとも間抜けな表情で驚いただろうか。あるいは無表情か。生憎、目の前にいる肉倉君の黒目は小さすぎて、私の顔はうつらないのだ。私が、自分の浮かべている表情を自覚できたのは、両目から涙がぼろぼろとこぼれてきた時だった。


「……わ、私、肉倉君に友達いないの、ずっと心配でっ」
「ああ」
「中学で、私といる時の肉倉君、楽しそうにしてたからっ、本当は友達欲しいんだって、勘違いして……っ」
「確かにそれは大きな誤想だよ……私は初対面の時から貴様に惚れている」
「なっ……!?」


箍が外れたのか、ストレートな言葉を容赦なくぶつけてくる肉倉君に驚いて、涙も引っ込んでしまった。そんな私の様子に肉倉君は満足そうに笑って、涙の流れた跡を親指でするするとなぞる。


「名前」


肉倉君が、初めて私の名前を呼んだ。それの意味するところを察してしまって、私は抗いようもなく、瞼を閉じてしまう。肉倉君の吐息が、近付いてくる。


「いたっ」
「……」


次の瞬間、肉倉君の学帽のつばが、私の額にぶつかった。恐る恐る目を開けると、さっきより至近距離にある肉倉君の眉間に、深い皺が刻まれている。笑い出してしまいそうなのをぐっと堪えて、私は肉倉君の帽子に指を伸ばす。


「……これなら、どうかな?」


いつか言ったような台詞と共に取り払われた帽子の陰にあった肉倉君の顔は、もう見慣れてしまったはずなのに、今までに一度も見たことがなくて、今までで一番魅力的だった。なぜなら、私が勝手に名前を付けた“友達”という関係は、もう別のものに変わってしまったから。




肉倉君は、友達がいない。




END


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