涙葬(ピーターと夢子)




とぷん。
左の壁から三番目。下の石畳から十六番目。特に何も考えずにそれらを叩いて居る自分に何かしらの成長を感じ、思わず笑う。現れた鉄の扉には、かなり古そうなものから新しいものまで、ざっと300年ほどの年月を示す大きな鋲や衝立や鉄の釘が、余す所無く打ちつけられている。

「…ピーター?」

自分を呼んだ声の清澄さが罪となって、彼女は此処に閉じ込められてしまったのではないかと、たまに考えてしまう。
か細くて、けれど澄んでいて、優しさと可憐さが満ち溢れているこの声に名前を呼ばれるだけで、まるでマシュマロの中にくるまれた様な、何とも言えない気持ちの良い気分になれるのだから。

「やあ、調子はどう?」
「ちょっと寝過ごしてしまったわ。気付いたら殆ど真っ暗で…此処はいつも暗いのだけど、それでも分かるのよ」
「そうなの?凄いなあ」

とぷん。お互い、視線も素顔も曝した事はない。彼女は見ての通り扉の向こうだし、僕は冷たくなった石畳に腰を下ろして、うっとり扉に見惚れながら相槌を打つだけ。
それでも尚、自分達はこの僅かな暗い時間の中で確かな関係を築いていた。とぷん。

「外はもう春なんだ」
「最近暖かいものね」
「花壇にはスミレが咲いてた」
「昔、私も植えたわ」
「ヒバリが鳴いていたよ」
「どんな声だったかしら」
「もうすぐ試験が始まって」
「頑張ってね」

とぷん。
「、そしたら、夏が来るよ」
「───」

音が聞こえなくなった。
壁の向こうの彼女は、きっとゆっくりと口元を歪め微笑しているだろう。
初めて逢った時に、彼女は言った。
昔、とても優しい人に恋をしたのだと。
優しくて、良く笑う人だった彼は、ある日突然学校を辞めてしまったらしい。
それが悲しくて苦しくて辛くて、彼女は涙が止まらなくなってしまった。

「こんな姿じゃ、」

とぷんとぷんとぷん。
何処に居たって疎まれた。親にだって見捨てられた。そんな彼女を唯一救ってくれたのは、他でもないこの学び舎。誰にも抱き締めては貰えない人魚姫はこうやって、一人静かに恐らく300年ほどの時間を、自分で作った海でたゆたっている。

「貴方に会えないわ」



一番奥のつっかえ棒が、また一つ腐りかけている。もうすぐ留め木を増やさなければならない。彼女を楽しませなければ、いつかは彼女の涙がこの部屋から溢れて、世界を飲み込んでしまう。
だから僕は、この部屋の扉に蛇口を取り付ける事にした。こうして度々部屋の中の海を減らして行けば、海の水は増え続ける事がないからだ。その水はどうするのか?それもちゃんと考えて居るさ。

彼女が一番好きな花の種を一つ、僕は飲み込んだ。バケツに溜めた水は、僕が全部飲むのだ。彼女の涙を肥料に、僕の体を苗床にして、やがて彼女が一番好きな花は、僕の体に咲き乱れて行く。
いつか彼女の悲しみが薄れて、海が枯れてしまった時、僕は彼女が一番好きな花を体中に咲き誇らせて、扉の向こうの彼女を笑顔で出迎えるのだ。

「…元気にしとったか?」
「うん、とっても」
「そうかそうか」

毛むくじゃらな顔を僅かに緩ませて作業を続ける大きな恩人に、僕はバレない様に静かに笑ってみせた。


涙葬



(私の元から消えてしまったね、遺された言葉の意味も知らないままに、)







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