水が、うつ。銀色の絨毯の様にも見間違えそうな柔らかなうねりは、冷たい水面の下に浸かってその美しい形状を静かに波立たせている。同じ色に染まった瞼を縁取る細く長い繊毛は、その中に秘められた灰色の宝石を包み込んで、まるでそのまま眠って居ろという強制力をもって子守歌を聴かせるかの様に閉じられたまま。 水浴びがしたいなんて唐突に仰られた御曹司は、私が制御の為の身体運動を織り成す以前に、その身を沈めていらした。 ばっしあああ、間抜けな音は驚くほど流麗に、透明感のある淡い緑と空色の狭間に衝撃という名の波紋を響かせて、不思議な哀愁を漂わせる雲の群れの向こうまで、残響音を木霊として連れ去って行った。 「気持ちがいいなあ」 「水浴びなど何年ぶりだろうか」 「昔はシシィと良く」 「ボートで遊んだものだ」 水の上にて、まるで違和感の無い会話と感じるのは、私が一言も自分の心情を語らぬまま、その自らの指先で声帯を喰い破った時から、身体運動としての振動を繰り返す事のない喉元を微かにさすりながら、御曹司の台詞に返答するのに困っていたからだろう。仕草に気付いた御曹司は、いつも浮かべる皮肉げな冷たい笑みよりも、まるで夕立を齎す空の様に奇妙に黄色い声を上げて高らかに笑ってみせた。 「おいで」 「一緒に水浴びをしよう」 水が揺らいだのに気付いて、あ、やばい、とか思ったところで、私は今の状況に対する抵抗策を微塵も持ち合わせては居なかった次第なので、そのまま手を引かれたら最後、御曹司と同じ様にばっしあああ、と間抜けな音を立てて、その水面を揺らす外はないのである。 「美しいなあ」 水にすっかり濡れぐしょぐしょになった私に何を言うか、この世の美しさというものを濾過して硝子にしたためたみたいに綺麗なお人が。伏せていた切れ長の目をやっと開けたと思ったら、何度血飛沫と泥臭い埃で汚れたか分からない私のぱさついた髪の毛を見て言う視線は、銀色を溶かして薄めて、幻影の畏敬心を作り出す。 そんな私の気持ちに気付いてか、御曹司は笑いながら美しさというのは常を始めとして、人の信念に値するものなのだよと続けた。そりゃ良いお言葉だ。その信念を価値か不価値かと判断する倫理観と価値観に対しての教授が行われないのは、この人がただ単に馬鹿だという事を如実に表しているからと、分かった。 「だから、私は君を好きなんだ」 …嗚呼、愚かで無知な御曹司様。 私はあなたのような昔の主様を思い出して、今あの方はどうしているのでしょうかと薄い青空に想いを馳せています。 きっとあなたはそんな事に気付きもなさらないでしょう。だってあなたは馬鹿だから。馬鹿なあなたでしかないのだから。 「何処にも行くな」 「…なんて、はは、」 「君に何て似合わないんだ」 けれど嗚呼、愚かで無知な御曹司様。 私はそんな愚直と不知を愛します。 何故ならばもうその昔の主様にはそんな清らかで美しい、例えを示すならば今私に降り懸かる晴れ間の夕立の如く冷たい貴方のその金銀色の細波のような価値観は存在しては居ないのです。だってあの方も馬鹿だったから。愛しさ溢れる私だけの、馬鹿なお人だったから。 水が、うち。 水を、浴び。 水は、揺れ。 水に、濡れ。 (こんなに水は綺麗だというのに) (ごめんなさいも言えない私を、) (どうか許さないでくださいませ) 視線に込めた贖罪に気付き、御曹司様は初めて見る様な情けない顔でお笑いになった。 仮葬 (全ては純乎たる貴方様の眼を欺く為だけに) ×
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