居残りE
”リドル先生への恋心と、リドル先生との思い出を、忘れよ”
そうしてわたしの中には”リドル先生に近付いてはいけない”という意識だけが残った。
「……自分に忘却術をかけたのか」
そう。こうすればもう、先生が拒んだものを押し付けてしまうリスクは減るから。
わたしの思惑通り、この1年は先生からなるべく遠ざかって生活できていた。幸い先生への想いは誰にも打ち明けてなかったし、元々授業くらいしか接点が無い。このまま卒業してしまえる。
筈、だったのに。
「どうして、思い出させたの……」
先生が心を乱すから。
4年生のときのわたしが自分に掛けた不安定な魔法なんて、たまったもんじゃない。
事実、わたしは記憶をなくしたというのに、先生に体を寄せられて心臓を掻き回されるような感覚に陥ったし、誰にも告げ口せずに先生を守ろうとした。先生がホグワーツにいれなくなるなんて、彼を邪魔するなんてことは、無意識的にしたくなかったのだ。
開心術なんて受けたら簡単に解かれてしまう。
わたしはもう、全ての記憶を取り戻していた。
……リドル先生のことが、すき。
すきで、たまらない。
こんなのつらい。くるしいよ。
どうしてこんなことしたの……!
「先生が、言ったから。聞きたくなかった、って」
涙が溢れて、喉が震えてしまう。声が上擦ってしまうのが恥ずかしい。それでも先生を責めたかった。
気持ちを伝えた途端に先生は冷たくなって、嘘吐きとわたしを謗った。そして記憶を消そうとしたから、そこまで拒むのならと全部捨てようとしたのに。あっけなく元通りだ。
本当に、酷い人。
ずっと密やかにあたためていた想いを拒まれた、わたしの気持ちを。
それをあなたのために捨てた、わたしの覚悟を。
……すべて無下にして、悪戯にかき乱すなんて、ひどい。
「だから、わたし、全部忘れたのに……」
「先生が拒むものなんて、っ、持っていたくない、」
「……、……忘れたい……!」
「お願いです、もういちど、」
消して。
言葉は最後まで発されることはなかった。
途中で、口を塞がれたのだ。
リドル先生の唇がわたしの憤りに蓋をする。
その柔らかな感触に呑まれて、頭が回らなくなってしまう。
大好きな先生の匂い。すれ違ったときのご褒美だった。
おでこに落ちてくる先生の前髪。さらさらしていて触ってみたかった。
わたしの頬に触れる手。触れてほしいと思いながら見つめていた。
先生からのキス。ずっと憧れていた。
今、すべて手に入っている。
なんなの。これ以上かき乱して、どうしたいの。
「忘れたいなんて、言うな……」
少しだけ唇を離して、先生が言葉を放つ。
わたしの頬を、肌が沈むほどの力で触れるから、先生の手から脈が伝わってくる。ああでも、どっちがどきどきしてるのか正確にはわからない。どっちも、かもしれない。
「……気に入らなかった」
吐息が唇にかかるような距離のまま、言葉を紡いでいく。
「俺のことが好きなくせに、俺を避ける君が気に入らなかった。他の奴には笑うくせに、俺にはにこりともしない君が気に入らなかった」
「君は俺を拒んだ。俺の全てを、受け容れたというのに。不可解で、不愉快だった」
「――君が言ったんだろ。できることはないかって。何されてもいいって」
「気に入らない……拒むなよ……俺のことが好きなくせに……」
「ノーネーム。拒むな……」
掠れた声。責めるような口調。わたしからしてみれば、なんて我儘な主張。
でも……とても甘い。
「リドル先生、」
恋心と思い出を失ったわたしが気に入らない。
自惚れじゃないなら、それは。
その言葉の真意は。
「わたし、先生を好きでいていいの……?」
先生の瞳の赤が揺れる。
ああ、1年前もこんな風に。わたしの言葉に怯んだように、先生は瞳を揺らした。
また先生が距離を寄せるのを察して、あまりにも近くて、目を瞑る。
「……ん……っ」
さっきよりも力強く口付けられて、どう応えればいいかわからなくて唇をぎゅっと結ぶ。いまだ拘束されている手もぎゅっと握って、その感触に耐えた。
答えてよ。さっきの質問の答え。
「せんせ、」
唇が離れたのを感じて、口を開く。
「ぇ、」
「黙って」
「……ぅ、んんっ……」
しかしそれを逆手に取られ、開いた口に舌を割り入れられてしまう。驚いて目を開いたら赤い瞳が見えて。先生が目を開けてこちらを見てると思うと耐えられなくて、また目を瞑る。
返事を急かしたいのに。
口が溶かされてしまって、無理だ。
「はぁっ……は……、!」
「……足りない」
「〜〜っ」
何度も何度も噛みつくように口付けられて、その度に唾液が混じる厭らしい音が聞こえて、熱い舌に舌を絡み取られて。
わたしの頭の中はとろとろになってしまった。
だめだ……ほだされてしまう。
さっきまで憤っていたのに、もう、すきという想いでいっぱいだ……。
「ノーネーム」
ぼんやりとした意識の中で呼ばれて、解放されたことを知る。
「ノーネーム、目を開けて。俺を見て」
ゆっくりと目を開けると、リドル先生の綺麗な顔がこちらを覗き込んでいたので思わず顔を背けてしまいそうになる。しかし頬を固定する先生の手が許してくれなかった。
「もう逸らしたりなんてするな。遠ざかろうとするな」
「ノーネーム。俺を好きでいろ」
真っ直ぐに見つめられて、どうにもこうにも胸がきゅんとする。わたしもわたしだ。
やっと返ってきた質問の答えは、わたしを幸せにするには充分すぎるものだった。拒まれるどころか求められている。
……命令口調、だけど。
「記憶を消しといて、本当に勝手ですね」
「五月蠅い。君が俺を……こんな風にしたんだ」
「!」
「君が、この感情を俺に教えた」
先生の手が頬から離れて、わたしのシャツを乱す。露わにされた左胸の上の方に口付けられて、ぞくりと背中が痺れた。
そのまま音を立てて強く吸われて、その感触と痛みに呼吸を止めてしまう。
「……っ」
先生が唇を離すと、そこには湿った赤い痕が付いていた。
これって……キスマーク?
独占欲のしるしって、聞いたことがある。
「……本当は、見えるところに付けてやりたい」
濡れた唇で呟かれて、身体の芯が疼く。
先生は何度かキスマークを指でなぞったあと、体を起こしてわたしの手首へ手を伸ばした。先生が触れると魔法が解けて、手首の拘束が無くなる。そのままデスクからわたしを起き上がらせて、所謂お姫様抱っこでわたしの体を持ち上げた。
奥の部屋に連れて行かれて、先生が毎日使ってるのであろうベッドの上に降ろされる。先生の匂いがいっぱいで、酔ってしまいそうだった。
そのまま先生もわたしに覆い被さるようにベッドに乗って。体重が掛かって軋んだスプリングにどきりとする。
暫く先生はそのままわたしを見下ろしていた。そのせいで心臓はどきどきしっぱなしで、もう止まってしまうかもしれない。
先生の指が、わたしの指に絡まる。
触れ合ったところが途端に熱くなる。
「すきだ」
……もう指どころじゃなく、全身が燃えるように熱くなった。
夢みたい。
これ、幻を見せられてるとかじゃ、ないよね。
「リドル先生」
呼んでみれば、先生は応えるように眉を上げた。絡んだ指も少し動く。
夢じゃない。幻じゃない。
ああ、だめだ。もう。ほんと。
「すきです……」
先生の目が、細められる。
その目の動きが優しくて、その表情が格好良くて、いとしくて、わたしの胸はきゅうっと締め付けられた。
「……もう1度」
「すきです」
「もっと」
「すき、です」
「照れるなよ……まだ足りないのに」
軽く絡み合っていた指がぎゅっと結ばれて、手が繋がれる。
先生に強請られて、わたしは何度もすきと囁いた。時折先生にすきと返されると、わたしは照れて何も言えなくなった。終いにはちょっぴり泣いてしまった。
だって、記憶を失うほどの恋が実ったのだ。
先生の囁きを脳に焼き付ける。もう絶対に、思い出1つ、忘れない。
朝が来るまでずっと、わたしたちは手を繋いでいた。
――1週間後。
わたしは闇の魔術に対する防衛術の授業を受けていた。
相変わらず実技が下手くそで、ペアのミネルバを痛い目に合わせてしまった。ほんといつもごめん。
「さ。今日はここまでかな。最後に前回のレポートを返却するから、前に寄って行って」
女子たちがワッとリドル先生の方に群がっていく。それが落ち着くまでわざとぐずぐずして、人気が無くなってきた頃にわたしは先生の方へ向かった。
「……よくできてたよ、ミス・ノーネーム」
「ありがとうございます」
「ああ、でも――さっきの実技練習は散々だったね」
「う」
見られてたか。
顔を顰めると、背の高い先生が前に屈んで、距離が近付く。それにドキリとして固まっていると、耳に唇を寄せられた。
「居残り。今日の夜21時」
そんなに遅い時間に?
きょとんと先生を見上げれば、先生は綺麗に口角を上げて微笑むと。
「……シャワーを済ませておいたら?」
爆弾を落っことした。
「……!」
「ふふ。真っ赤だよ」
「せ、先週、」
「先週?」
「した……ばっかり……」
「ああ。足りないよ」
「っ」
「本当は毎晩だって一緒にいたい」
このエロ教師……!
目玉焼きが焼けるんじゃないかってくらい熱くなった顔をレポートでパタパタと扇ぐと、先生が更に口を開く。
「ナナシは違うの?」
ナナシ、って。
ファーストネーム、初めて呼ばれた。なんでこんなところで、こんなときに、そんな、不意打ちすぎる。
わたしの顔はもう、熟れたトマトの様だろう。
ついには顔のほとんどをレポートで隠して睨みつけると、先生は更に笑みを深めた。
爽やかで人気者のリドル先生。
本当はとっても意地悪で、我儘で、少し甘えん坊なことは……居残り授業を受けている、わたししか知らない。
[目次]