居残り@
「……居残りだね、ミス・ノーネーム。19時に私の部屋まで来るように」
教室の真ん中、数々の生徒の目に晒されながら。わたしは杖を持っていた筈の手で空を掴んで、突っ立っていた。
杖は今、3mほど先にいる男性の手で弄ばれている。先程わたしに居残り命令を出したその人だ。
縋るような目でその人を見ても、彼はニコッと魅力的なスマイルを浮かべるだけで。すぐに後ろを向いて生徒たち全員の前に戻ると、授業の終わりを告げた。
「リドル先生と居残りなんて……羨ましい!」
「2人っきりでしょ? 私だったら、どうにかして抱きついちゃうかも!」
食欲が湧かずかぼちゃジュースを啜るわたしに、友人たちはキャーキャーとリドル先生との甘〜い居残り妄想を繰り広げていた。
しかし居残りに行くのはわたしだ。是非とも変わって欲しい。
リドル先生。
闇の魔術に対する防衛術を担当している若手の先生だ。教えるのが上手だし、他の数々の仕事もこなす、絵に描いたようなできる男。おまけにルックスも抜群に良い。
殆どの女生徒は先生にメロメロだし、男生徒でさえ憧れの眼差しで先生を見ている。
……でも、わたしは違った。
確かに格好良くて魅力的な先生であるとは思う。
でも、怖い。
1度だけ、何もない廊下の石壁の前に立っているのを目撃した。先生はわたしに気づいて、いつも通りに挨拶をしてきた。しかしその瞳はいつものブラックではなく、燃えるような赤だった。
そのときから第六感が、この人には注意せよと警報を鳴らしているような気がするのだ。
19時。
おそるおそる部屋をノックすれば、中から足音が聞こえてくる。どうぞと返してくれればこちらから開けるのに。足音が、時限爆弾のタイムリミットを刻む音のように感じる。
カチリと扉が開いて、リドル先生が現れた。ジャケットを脱いで、授業のときには着けていたネクタイを外し、シャツのボタンを緩めている。
いつもと違うラフな姿に、不覚にもときめいてしまった。
「やあ、ミス・ノーネーム。入って」
恋人を招くように甘い声で囁いて、肩を抱かれながら、わたしは魔の部屋に足を踏み入れる。
ああ、何このエスコート。既に帰りたい。
「……さて。早速、今日の武装解除の呪文を練習しよう」
先生はわたしを部屋の真ん中に誘導すると、目の前に立った。内ポケットからスッと杖を取り出す。わたしのものより長くて、威圧感がある。
「君は1本も誰かの杖を飛ばすことができなかった。私を相手にしたときなんかは……緊張していたのかな? 逆に杖を渡してしまったね。それではもしものとき、心配だ」
そうなのだ。わたしは闇の魔術に対する防衛術がてんで弱い。
座学はそこそことして、実技がダメダメ。今まで座学のお陰で試験はなんとか切り抜けてきたものの、今年はOWLを控えている。先生の指導に熱が入るのも当たり前だろう。
「1度やってみてごらん」
わたしはおずおずと杖を取り出し、先生に向けて武装解除を試みた。
「え、エクスピリアムス!」
先生の髪がふわっと揺れただけだ。
「エクスペリアームス、だ」
発音を正される。
そこから間違っていたなんて……恥ずかしくて、顔が熱くなった。
「もう1度」
「エクスペリ、アームス!」
今度は先生が1歩後ずさった。しかし、手元が緩むことはない。進歩はしたが、成功までにはどうにも程遠い気がした。
「……良くなったね。もう少し早く言えるようにして。あと、杖の動きが違う。こうだ……」
例を見せるように先生が杖を振る。
真似をして杖を動かしたつもりだが、違ったらしい。先生はこちらに歩み寄ると、真横に立って再度杖の動きをわたしに見せた。
「こう回すんだ」
真似をする。
やはり、わたしの動きはどうも違うらしい。
「こう、」
先生がわたしの後ろに回る。まさか、と思ったと同時に、先生の手がわたしの手に添えられた。
ぶわっと顔が熱くなり、鼓動が高鳴る。
杖の動きを誘導されるけど、そんなの全く頭に入ってこない。
しかも、すぐに離れることはなく、そのまま術の解説が始まってしまった。
相手の手元に集中して……上手く扱えるようになれば相手を吹き飛ばすこともできる……武器を奪うことも……。
熱心に語られるが、杖腕に密着され、耳のすぐそばで囁かれては、ひとたまりもなかった。
「……おや。耳が赤いね」
心臓がドキリと大きく喚いて、そのまま止まってしまうのではないかと思われた。
気づかれた。
先生がクス、と笑うと、わたしの顔にますます血液が集まっていくのを感じる。重ねられた手も微かに震えてしまう。
「そうか。5年生なんて、もう立派なレディだね。こんなに体を寄せたら、意識してしまうかな?」
さも面白いおもちゃでも見つけたかのような声色に、わたしは悔しくなってしまった。
「……平気です。何とも思いません」
平然を装って、棘のある返しをする。
しかし先生は動じることなく「そう」と返すと、また術の解説を再開した。
集中しなければ。せっかくの解説を聞いてないなんてことになれば、呆れられてしまうだろう。よくよく考えてみればこんな優秀な先生の個人指導を受けられるなんて、ありがたいことだ。
しかし。
杖手に添えられた手と反対の手が、わたしの肩を優しく掴んだ。2人の距離が縮まる。背中から抱かれるような形で、杖の動きの指導が始まる。
何してんのこの人。
離れるどころか近付くってどういうことなんだろうか。顔だけでなく全身が熱くなって、変な汗をかいてくる。解説なんてますます頭に入らない。
ふと、先生の吐息が耳を擽って、わたしはピクンと反応してしまった。
ギブアップだ。
「……先生……」
「何?」
先生はピタリと動きを止めて、わたしのか細い声を聞き取ろうと更に身を寄せた。ほとんど抱かれているようなものだ。
夕食のときに抱きついちゃうかも! と笑っていた友人を思い出す。
彼女に先生にこんなことをされたと言ったら、どんな反応をするだろうか。
「…………近い……」
悔しまぎれに唸るような声でそう伝える。
先生は暫く無反応だったが、ふ、と息を抜くように笑むと、口を開いた。
「平気じゃなかったのかな?」
「でも、これはあまりにも、……!?」
杖手をぎゅっと握られて。わたしの腕ごと先生はわたしのお腹に腕を回した。肩に添えられていた手は首の前を通り、わたしの体は先生の方へ引き寄せられた。首元に顔を埋められ、先生の髪が頬を擽る。
完全に、抱き締められている。
ほんとに、なに、してんの。
完全に頭が空っぽになり、体がフリーズする。わたしの体の触感を楽しむようにぎゅうっと先生の体を押し付けられて、わたしはびくんと跳ねてしまった。
すると先生は堪えるように笑い出し、わたしから離れた。
急いで距離をとり、ばっと後ろを振り返って先生を睨む。
「ふふ、あはは、ごめんごめん。揶揄ってみただけだよ」
また近寄ってくるものだから、咄嗟に杖を向けると、先生はいとも簡単に武装解除の術でわたしの杖を奪ってしまった。しかも無言呪文で。
ああ、やっぱりこの先生、怖い。
後ずさっても、踵に壁がぶつかる。すぐに追い詰められてしまった。
「君が何とも思わないなんて言うから、意地悪したくなったんだ」
わたしの杖を操って、そっと杖先でわたしの前髪を整えると、先生は杖を返してくれた。
「今日の授業はここまで」
その言い方に疑問が湧き上がる。
「今日……?」
「次回は明後日の19時」
「え?!」
「だって、出来るようになってないだろ?」
う、と呻くと先生はにんまりと口角を上げた。
「宿題も出そうか? 私が言った解説をまとめるとか。まあ、聞いてなかっただろうけど」
その言葉に目を見開く。
この先生、わたしが集中できていないのを分かっていながら、長々と解説していたんだ。
わたしの目は間違っていなかった。
やはりリドル先生は、裏の一面を持っている。
「そんな赤い顔で見つめられたら、またちょっかい出したくなっちゃうな」
あまりの台詞に恥ずかしさと困惑で泣きそうになって、身を守るように戦闘ポーズをとると、先生はまたも楽しそうに笑い出した。
完全におもちゃにされている。
ああ、この居残り授業はいつまで続くんだろう。
明後日までに完璧に仕上げてやる、と心に決めながらわたしは先生の部屋を飛び出した。
[目次]