Non ti dimenticare di me

(俺を忘れないでくれ)



「ぎゃはは、フラれたなァルッチ」
「黙れ野良犬」

そんな会話の後、ルッチはすぐさま自室へ移動しようとする。それに気付いた麦わらの一味はミリアに逃げるよう言うが、そのときには既に窓際から立ち去っていた。彼女は分かっていたのだ。あの瞬間を以て、自分が"保護"の対象ではなくなったことを。だから逃げ出した。彼の部屋からーー彼から。
ルッチが窓際に降り立ったとき、室内に人影はなかった。予想できていたことだ。捕まれば今度は海楼石の手錠を掛けられ動きを封じられる。それは何としても避けたいだろう。ルッチとしてはそんな拘束などしたくはないのだが、あのスパンダムが命じぬはずもない。さてどこへ逃げたのか、それさえ彼には予測できていた。麦わらの一味との合流、そのためには跳ね橋の繋がる下の階へ行く必要がある。それにもし予測に反した場所にいたとしても、自慢の嗅覚と鋭敏な気配察知能力で必ず見つけ出す自信があった。彼は焦りなど全くない、余裕さえ見える足取りで部屋を後にした。
対照的に、廊下を走るミリアは焦燥を滲ませていた。その姿は人型ではなく白い毛並みの狐。獣姿の方が早く走れるからだ。見つかってしまえば簡単に捕らえられてしまうし、捕らえられてしまえば碌な抵抗もできはしないだろう。それでは彼らの足手まといとなるだけだ。彼らには、ロビン救出に全力を注いでもらいたいというのに。
そんな思いも虚しく、階段を駆け下りたところで重力に逆らい体が浮いた。じたばたと藻掻けど脚は空を蹴るばかり。抱え上げられたのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。

「ミリア、」

名を囁かれ、ぴたりと抵抗が止む。観念したのかそのままゆっくりと元の姿に戻っていく彼女は、しかし直後に回し蹴りを放った。なんの予備動作もなく為された蹴りはそれでもそれなりの威力を持っていたのだが、ルッチにとっては仔猫の戯れ程度に過ぎず。あっさり受け止めると、バランスを崩したミリアの上に覆い被さるようにして動きを封じた。床に縫い付けられたミリアは、強かに打ち付けた筈の背中に痛みを感じないこと、ルッチの腕が背に回されていることに気付き、庇われたのだと悟る。
衝撃に備えて反射で閉じていた瞼を開ければ、至近距離でルッチと目が合う。ミリアは逸らしてしまいたかった。彼ではなく麦わらの一味を選んだことに更なる後ろめたさを感じて。だが彼の瞳は閉じることさえ許さない。ミリア、もう一度名を呼ばれる。それに応えようと口を開き掛けた、瞬間。
ミリアの意識は、呆気なくフェードアウトした。



次にミリアが目を開いたとき、最初に視界に映ったのはスーツだった。未だぼんやりとした意識の中、徐々に目線を上げていけば、そこには無表情のルッチが。そこで漸く、自分が彼に姫抱きにされ運ばれていることに気付いた。妙に力の入らない気だるい体から、後ろ手に嵌められた重く冷たいものが海楼石の手錠であると判断する。普通であれば無理な体勢で体を痛めるであろうところ、ルッチの抱え方が上手いのか気だるさの他に異常は見られなかった。
状況が知りたくて首を動かしていれば、気付いたルッチからおはようなどと場違いな言葉が降ってくる。なんと返せば良いのか、咄嗟に言葉が出せなかったミリアはただただルッチの顔を見つめるばかり。
そんな折、誰かの視線を感じたような気がした。後方を見ようと首を仰け反らせるも、当然見えるはずもなく。下ろして、懇願にも似た言葉は無視されることさえ覚悟していたのだが、ふっと笑んだルッチは優しくその場に下ろしてくれた。ちらと後方に目を遣れば、シフト駅で出会ったチムニーとゴンベの姿が。どうやらここまで尾行していたらしい彼女は、ミリアと目が合うとにこっと笑いぱっと隠れてしまった。しかし素人の、まして子供の気配にルッチが気付かないわけがない。素知らぬ振りをしているとしか思えず、再びミリアの腰を抱いたルッチの横顔を見上げた。が、その無表情からは何も読み取れはしなかった。
地下通路へ繋がる階段は漸く終わりを見せた。現れたのは鉄の扉。スパンダムが隣に設置された機械に触れ鍵を差し込むと、ゆっくり開いていく。その先には、暗く長い地下通路があった。

「ここを通って、正義の門に……」
「ここを通るのは初めてだったな、ミリア」

思わず零した呟きをまさか拾われるとは思いもよらなかったミリアは、扉とその先を見つめていた目をルッチに向けた。すると、下を向いていた彼と視線が交わる。その瞬間、冷たい色を宿していた瞳に熱が加わる。そして耳許に近付く、唇。

「そう怯えるな。おれは怒ってもいねェし、いや……そうだな。お前の願いは極力叶えてやりたいと思う」
「それは、」
「だがだめだ。おれはもう、お前を手放すつもりはない。ニコ・ロビンの解放も、できない」

一瞬の期待は呆気なく砕け散る。当然のことと分かっていながら期待してしまった自分に呆れながら、ミリアは目を伏せた。彼の囁きは続く。

「愛しているんだ。お前が何者になろうと、どんな道を選ぼうと、変わらない。……それだけは、忘れてくれるな」

はっと目を見開くミリアの背をルッチは柔く押し、先へ進むよう促す。スパンダムとロビンは既に地下通路に歩みを進めていた。
何もない通路に足音だけが響く。入口にて静かな会話を交わしていたルッチとミリアも、今は沈黙を貫いていた。実に息の詰まりそうな通路だった。これがもしロビンの連行のためなどではなく、幼い自分がルッチを連れて小さな冒険のために通っているのだとしたら、こうも重い空気に苛まれることはなかったのだろうと、ミリアはどうしようもない考えを巡らせる。
そのとき、遥か後方で何かの破壊音が轟いた。思わず立ち止まりかけたミリアを制すように、腰に回されたルッチの腕に力が篭もる。さすがのスパンダムでもその轟音には気付いたらしい。挙動不審になりながら振り向くスパンダムに、ルッチが淡々と返す。みっともなく喚く彼に顔を顰めたミリアは、自分より先を行かされているロビンを見つめた。このエニエス・ロビーに来てからというもの、彼女とは一度も話をしていない。覚悟の上とはいえ、励ましの言葉一つ掛けられないことに歯痒さを感じていたのだった。
が、ルッチの言葉に視線は彼へと移る。

「……やっぱり気付いてたの」
「まあな」

更に喚き散らすスパンダムを視界の隅に入れながら、口角を上げるルッチを見上げる。どことなく嬉しそうに見えて、彼は闘いたいのだとーーそれも強者と命を削るような闘いをしたいのだと悟る。そして、ルフィは彼のお眼鏡に適ったのだということを。指令が出なかったから、というのも理由だろうが、ルフィと闘いたいがために辿り着く手段としてチムニーとゴンベを見逃したのが本当のところだろうとミリアは思う。
ルフィには負けてほしくない。彼が負けるということは、麦わらの一味の敗北を意味する。ルッチ達CP9が命を取らないはずもなく、全員死亡さえありえることだ。けれどもーーけれどもミリアは、ルッチにも怪我をしてほしくないと思ってしまう。どちらも助かる道などありえないと理解していながら、それでも両者共に大切な存在であることに変わりないのだった。どう足掻いても避けられない闘いに、拳をぐっと握り締めた。
暫くして、声が聞こえたような気がしたミリアは今度こそ立ち止まり後ろを見る。ロビンもまた足を止めたようで、スパンダムの聞くに耐えない罵声が響いた。髪の毛を引っ張れと怒鳴る彼に呆れを滲ませつつロビンの腕を掴んだルッチは、ミリアの名を呼ぶ。なおも続けられるスパンダムの暴言。忌々しげに彼を睨み付けたミリアを窘めるかのように、ルッチは彼女の肩を撫でた。

「ロビ〜〜ン!!ミリア〜〜!!」

次の瞬間地下通路に響き渡ったのは、間違いなくルフィの声だった。一気に表情が明るくなるロビンとミリア。

「長官はニコ・ロビンとミリアを連れて、どうぞ先をお急ぎに……」

そっと引き寄せたミリアの耳許で誰にも聞かれぬよう囁いたルッチは、慌てふためくスパンダムにそう告げるとルフィを迎え撃つために去って行った。ミリアは、その背をただただ見送ることしかできなかった。