Altro che se me ne ricordo

(勿論、あのことは覚えているさ)



司法の塔内にあるルッチの部屋にて、カクとカリファが机上に置かれた果実と睨めっこをしていた。不気味な模様の2つは、驚いたことにあの"悪魔の実"なのだった。司令長官室を後にする直前、呼び止めたスパンダムから渡されたものだった。
相変わらずルッチに抱えられるようにして腰掛けるミリアは、2つの悪魔の実を凝視していた。自分が食べたのは随分と幼い頃のことで、記憶を失くしていたことを差し引いても見た目は全く覚えていなかったが、それでも強烈なインパクトのあった味だけは鮮明に覚えていた。あんなに不味いものを2人は食べるのかしら、とある種野次馬根性にも似た興味で以て2人を見つめた。
あれこれ議論する2人に、面白いから食ってみろと言うルッチ。そのとき、突然開け放たれた扉からジャブラとクマドリ、フクロウが顔を覗かせた。そしてジャブラが、2人にやめるよう言う。売れば金になる、と。散々冷やかされるが、2人を思って言っているのもまた事実のようだ。カクにこれ以上強くなられたくない、というのも本音のようだが。しかし、2人は丁寧に皮を剥き、とうとう一口二口と口にしてしまった。途端顔色を悪くして口元を抑え、不味い、と。

「全部食べちゃってるけど……」

思わずといった風に呟いたミリアの手を取り、ルッチは立ち上がる。腕を引かれミリアもまた立ち上がると、すかさず腰に回される手。

「長官殿の指令次第でーーすぐに実戦で試せるかもしれん」

ブルーノの奴は待ち切れず先に祭りに参加しているようだが。その言葉に、ミリアがはっと顔を上げ部屋にいるメンバーを確認する。ルッチの言葉通り、ブルーノはいなかった。まさかルフィ達と?居ても立ってもいられず、ミリアは窓に駆け寄った。すると、裁判所の屋上にブルーノとルフィらしき人影を見つけた。所々が破壊され砂煙が上がっている様子から、既に戦闘が開始されているらしいことを悟る。言葉もなく見つめるミリアの肩を抱くと、ルッチは見せまいとするかの如く窓から遠ざけた。そして、部屋に屯する5人に出ていくよう言った。
5人が退出すると、当然のことながら2人きりとなる。ルッチはミリアを椅子に座らせると膝を付き、彼女の手を優しく握った。慈しむように。奇しくもそれは、海列車にてミリアがロビンにしたことと酷似していた。

「……怒っているか?幻滅したか?」
「え……?」
「協定を破ったことを」

突然の話題にきょとんとするミリアの指先一本一本にキスを落とし、最後に、手の甲へキスを贈った。忠誠を誓う騎士のような行為に頬を赤く染めずにはいられないミリアは、静かに、怒ってないと答えた。

「ルッチのことは、怒ってない……確かにあの瞬間、裏切られたって思ったけれど、でも……わたしに、そんな資格はないもの」

ミリアは未だに記憶を失っていたという負い目を捨てきれないでいた。きっと一生捨て去ることなどできないのだろう、いや、捨て去ってはいけないのだ、と思っていた。ルッチの想いは痛いほどに伝わっており、それだけに、自分を責めずにはいられないのだった。たとえ記憶を失う原因が、他にあったのだとしても。だからルッチに対して強くは出られないし、想いを跳ね除けることもできはしないのだ。
だが、ルッチはその言葉に納得がいかないらしい。手を離すと、今度はほんのり桜色に染まった頬へ手を添えた。今にも唇が触れそうなほどに、ぐっと顔を近付ける。

「資格なんて必要ないだろう。おれは……お前が、たとえ記憶を失くしていても、生きていたというだけで充分なんだ」
「でもっ!」
「今まで忘れていたにしても、今は思い出している。覚えているんだろう、おれのことを。だったらそれでいい。お前が自分を責める必要は、どこにもない」

滲む視界の中で、ルッチが柔らかく微笑んだのが分かった。ミリアはしかし、そっと目を伏せた。

「まだ、全てを思い出せたわけじゃないの。きっと忘れていることの方が多い……」

そのことが、さらにミリアを縛り付けた。こんなにも想ってくれているというのに、自分の記憶は曖昧なままだ。ルッチとの出会いも、出掛けた街も、築いた思い出も、芽生えた感情も。
ふと、頬に添えられていた手が離れる。ルッチは数瞬考え込むと、ミリアを抱き上げた。小さく悲鳴を上げたミリアは、落ちないようにとルッチの体にしがみつく。突然何を、そう思いつつ顔を見遣れば、彼は囁くように言葉を紡いだ。

「……おれ達の出会いは、15年前だ」

その日のことを、ルッチは鮮明に覚えていた。
とある王国を乗っ取ろうとした海賊達を、人質となった兵士500人諸共皆殺しにした任務から数週間ほど経った、ある日のこと。エニエス・ロビーにやってきた大将青キジが、ルッチの部屋を訪れた。幼いミリアを抱き抱えて。唐突な訪問に驚くルッチを他所に、クザンは用事があるからと、半ば無理やりルッチにミリアを預けたのだった。
幼児が好きではなかったルッチは、はじめは無視して近寄るなというオーラさえ滲ませ本を読んでいた。だが、好奇心旺盛で怖いもの知らずなミリアは頻りにルッチの服を引っ張った。そして、言うのだ。豹さんになって、と。どうやらクザンは事前にルッチの能力を教えていたらしい。何度も懇願されて鬱陶しさを感じた彼は、しかし直属ではないとはいえ上司の娘を傷付けるわけにもいかず、渋々豹になったのだった。途端に瞳をきらきらと輝かせるミリアの頬を舐め上げれば、きゃっきゃと嬉しそうに笑う姿に、らしくもなく胸が温かくなった。
暫く豹となったルッチを撫で回して楽しんでいたミリアは、突然ぴたりと動きを止めた。それは、背中にある大きな傷痕を見たからだった。ルッチはちらりとミリアの顔を見た。今にも泣きそうに見え慌てて能力を解除し人型に戻ると、宥めるように優しく、けれども不器用に頭を撫でた。泣かれては堪らないとばかりに。幸いにも涙を流すことはなく、苦手な泣き止ます行為をしなくてすんだ。
ほっと息を吐いていれば、ミリアはルッチの目をしかと見つめて。泣きたいなら泣けばいいのに、と、そう言ったのだ。今の今まで泣きそうにしていた張本人が何を、と思ったルッチだったが、頬に触れた紅葉のような手があまりに温かで、何故だか動けなくなった。泣けないなんて、痛いよ。おにいさん、痛そうだもん。紡がれる言の葉を振り払うことができず、ルッチは暫し無言でミリアを見つめた。すると、何を思ったのか、ミリアは懸命に背伸びをして、胡座を掻くルッチの頭を抱き締めた。幼児らしい熱いほどの体温と柔らかさを直に感じて、思わずルッチは息を止めた。泣いてもいいよ。その言葉に、流すつもりは毛頭なかった筈の涙が、ぽろりと零れ落ちた。

「それから、頻繁にクザンさんはお前を連れて来るようになった。何を思ってかは分からないが……会う度、お前はおれを温もりで包んだ。初めてだった。あんなにも、誰かに温もりを与えられたのは。……次第におれは、この温もりを手放したくないと思うようになった」

これが始まりなのだと言って優しく笑うルッチに、ミリアは言葉もなく、ただ語られた出会いを思い出そうとするかのように、静かに瞼を下ろした。