気付いたらキスをしていた。なんの合図もなく唐突、触れ合って初めてあ、と思ったくらいだ。目を開けたまま、互いに確かめ合うような、それでいて喰らい尽くそうというかのような。猫科の能力者故か、ざらりとした舌触り。生々しいその感触をそれでも心地良いと感じるのは、確かに愛だと信じたかった。
「それ、間違ってます」「え、嘘」「本当です」ノートの端にすらすらと書き記された数式。「ほら」「わ、あ、ほんと……」当て嵌めて解けばあら不思議。正当へと辿り着く。用いる公式からして違っていたようだ。「さすがはフョードルせんせ!天才ですね!」「貴女が愚かなだけですよ」今日も今日とて毒舌は絶好調らしい。
ふあ、と欠伸をしていれば背後から声が掛かる。「今日もお仕事ですか?」「そうですよ」机に朝食を並べる彼は、この世界の人間ではない。所謂逆トリップというもので。きっと私がいなくても生きていけるのだろうけれど。「頑張って下さいね、ぼくを養う為に」にっこり告げられた言葉に、今日も私は奮闘するのだ。
毎日ひとつぶ。種を蒔いては水も遣らずに枯らすのだ。不毛な習慣。虚しいだけの命。「あァ、死にたいなあ」今日もほら。「そんな悲しい事、言わないで下さいよ」ぼくは寂しがり屋なんです。貴女が居なくなったら泣いてしまう。嘯く彼がその実、毎夜毒を盛っている事を私は知っている。
あ、雪。呟いた彼女は窓の向こうを見詰めている。あんまり熱心なものだから、なんだか面白くない。珍しいものでもないでしょう。無愛想な言葉に、彼女は小さく笑った。でも、貴方といるとなんだって特別になるのよ。ぼくは笑った。安い幸せだ。けれども、そんな一言で心浮き上がるぼくは、彼女よりよっぽど単純だ。
両親を喰われたあの晩、恋と呼ぶには醜く執着と呼ぶには純粋過ぎる感情が私に芽生えたことを知っているのは、全てを見ていた月だけだった。「貴方に殺されたいと思っていたの」一瞬にしてふたつの命が潰えた夜、何の気紛れか私を見逃した彼は、苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。「何と……気味の悪い女子よ……」
「好いたお人が鬼となったら」明日の予定についてでも話すかのような、そんな軽い声音だった。「……私は、」言い掛けた私を遮るように言葉は紡がれる。「私は余すことなく喰らうてほしいのです。血の一滴、髪の一筋まで」五日後、兄上が鬼となったとの報せが入る。更に三日後、彼の人が兄上に喰われたと知った。
「掌が好きです」幾度となく豆が潰れ硬くなった、文字通り血の滲む様な努力をなされてきたことを如実に表している、そんな掌。胸が締め付けられる。「お前の手は柔いな」そっと細められた目元。嗚呼、貴方を取り巻くほんの少しが優しさで彩られていたなら。貴方が報われる瞬間がひとつでもあれば良かったのだ。
どうせなら何ひとつ思い出さぬままで在りたかった。"己"の半生も煮え滾った憎悪も醜悪な最期も、今の自分には要らぬもの、要らなかったもの、だったのに。記憶だけが先走り、私はただ置いていかれるばかり。お前の微笑みに"お前"の死に顔が重なるくらいなら、永遠、忘れたままで良かったのだ。
死んでしまうことはわかっていた。叶うはずもないこと。命を賭しても尚、届かないこと。それでも挑んだのは、偏に私が鬼狩りであるから。「……惜しいな」往なしてばかりの鬼は言う。「その剣技、才能……ここで散らすにはあまりに惜しい」鬼にならないか。上弦の壱による勧誘。私は磨き上げた奥義で以てそれに応えた。
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