「こわいの」

それは、君がおれに見せる初めての感情だった。真っ暗闇の中で砂浜に立つ君はそのまま、吸い込まれてしまいそうで。

「あぶないよ」
「…そんなことない、海とはこんなに離れてる」
「違うんだ」

緩く首を横に振ると、なまえはゆっくりとおれの方に歩いてくる。不安から来る焦燥感に思わずなまえの手を握った。

「こわいの」
「…」
「本当は、海が、とてもこわい」

何となく顔を見られずにもたげていた首を上げ彼女を見ると、その視線は海ではなくおれに、向けられていた。

「広すぎて、飲み込まれて誰にも気づかれないんじゃないかって考えてしまうから」
「飲み込まれないよ。おれがさせない」

ぎゅっと腕を引き寄せた体は小さく震えていて、寒いのだろうかと思ったけど多分違う。今日の海には生暖かい風が吹いている。

「タローの傍も、こわい」
「どうして」
「タローは海に好かれているから。だからいつか私の手の届かない場所に行ってしまいそうで、だから」
「だから、いない方がいい?…なまえにとってそれは、おれじゃなくても一緒じゃないのかな」

確信をついたのかなまえの体が小さく跳ねた。こうしていつも、他人を遠ざけてきたのだろうか。信じたら、心許したらいつか消えてしまうかもしれないのが怖いのだと、一人で嘆いていたのだろうか。

「そんなに、一人になろうとしないで」
「、…タロー」
「おれは離れたりしない」
「私は、……私はそんなこと望んでないよ」

震える声の彼女はそれでもまだ、どこまでも遠いところにいこうとする。ああ、そうだこれは彼女のためであって、でもそうじゃなかった。なまえがこわがる以上に恐れてたのは紛れもないおれ自身。

「………これ以上、おれから離れていかないで」

掴んだままのなまえの左の手のひらにそっと口を寄せた。触れあったそこからじんわりと体温が混じり合う。大丈夫。おれも、なまえもちゃんと、ここにいる。

「──…ありがとう」

ようやく聞こえた肯定的な言葉に、強く強くなまえを抱きしめた。背中に感じた腕のぬくもりはこの上なく確かなもので、このまま二人溶け合えてしまえばいいと思えるほど体温の境界が薄れていく。

そうしてそっと顔をあげたなまえの瞳からあふれる粒はどんな海よりも、ずっとずっと、きれいだと思った。



掌(懇願)




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