(燐しえ)
夫婦設定
地球から人が消え去ったような、そんな錯覚をおこす程に静かな夜。
燐は薄暗い部屋の中でベッドに仰向けに横たわりながら、瞼を開けて天井を見ていた。
自分の睡眠に、薬が必要になってから少し経つ。睡眠薬を飲んでいることは誰にも言っていない。もちろん、隣で幸せそうに眠っているしえみにも。
燐はゆっくりと体を起こすと、夢の中にいるしえみの顔をジッと見下ろした。月明かりに照らされた彼女の表情は穏やかだ。成人しているのに、どこかあどけなさを感じさせる彼女の寝顔に燐は思わず笑みを零し、彼女の愛らしい唇にそっとキスを落とした。顔を離してもう一度微笑むと、起こしてしまわないようにベッドから降りた。
燐はそのまま静かに窓際まで歩み寄り、カーテンの隙間から夜空を見上げた。雲一つ見当たらない空は、一面に星が輝いていて美しい。だが、燐には以前しえみと二人で見た時のような感動はなかった。心が澱んでいる。真っ暗闇で探し物をしているような。重い荷物を背負わされてぬかるむ地面を進んでいるような。いつ終わるか分からない苦しみと闘っている。それが、上手くとれない睡眠と関係していることは燐自身わかっていた。だが、一体どうすれば、このもやもやと巻き付いてくる憂鬱を消す事ができるか、それがわからない。そもそも、この憂鬱の原因はなんだろう…
「!」
そこまで考えて、背後で何かの動く気配がしたことに気づき、燐は慌てて振り返ろうとした。だが後ろから胴に腕を回されて叶わない。背中に温かい体温を感じる。
ふわり。花の香りが漂う。
それと共に、燐の緊張は直ぐに解けて安心感へと変わった。
「しえみ」
確信しながら呼べば、しえみはすぐに『なぁに?燐』と返してくれた。
「俺、起こした?」
「‥さっき燐からしてくれたキスが、私の夢じゃなかったなら」
「…悪ぃ。それ、夢じゃない」
「ふふ、よかった」
クスクスと笑う振動が背中から伝わって、くすぐったい。しえみはそのまま暫く笑ってから、急に静かになったと思うと、「ねぇ、」と言った。
「燐‥眠れないの?」
おっとりと優しく聞いてくるその声に、ドキリとする。
「いや、いつもは眠れるんだけど、今日に限ってなんか…」
「なんか…なぁに?」
「休憩中に、居眠りしっちゃって‥」
「だから…今日は眠れない?」
「うん多分…。馬鹿だよな、俺」
燐は『はは‥』と苦笑いをした。しえみは気付いていないのか「お昼寝したなら、眠くなくても仕方ないね」とのんびり言った。
「ぉ、おぅ」
「…」
「?しえみ?」
黙ってしまったのを不思議に思い、振り返ろうとした瞬間、
「くしゅんっ!」
「!」
小さなくしゃみの音が聞こえた。
「しえみ、風邪ひくぞ。ベッド入れよ‥」
心配そうに言った燐の背中に、しえみはまたギュッと抱き着いた。
「燐も、お布団入ろうよ」
「うーん‥俺、まだ寝ねぇけど‥」
「じゃあ、燐が寝る時まで私もここに居る」
「‥わかった。ベッド行こう」
そう言うとしえみはやっと離れた。燐はくるりと回り、しえみに向き合う。
そしてギョッとした。
「!しえみ?な、何で泣いてんだ‥!?」
「な、泣いて、ないよ」
「いや、すげぇ涙出てんぞ!鼻水も出てるし!」
「う゛‥な゛いてな゛いも゛…」
しえみは何かに堪えるように顔をしかめながら涙を流していた。
「‥燐、お布団行こうよ」
「お、おぅ‥とりあえず、鼻かんでからな…」
燐はティッシュ箱を探して数枚取ると、しえみの鼻に当ててやった。
「ほら、ゆっくり息吸って、思いっ切りかんでみ‥」
「ん、んん゛‥」
「そうそう、まだ出そうか?」
尋ねる燐を潤んだ目で見詰めながら、しえみはふるふると首を振った。燐は心配そうにしえみの手を引いてベッドまで連れていくと、まだ暖かい布団に包まらせ、自分も潜り込んだ。
悲しそうに顔を歪めて、ぽろぽろと涙を零しているしえみに向かい合い、あやすように優しく背中をたたいてやる。
「しえみ…どうしたんだよ」
尋ねると、しえみは眉を下げ、『それは、私の台詞だよ‥』と鼻声で言った。
「‥燐は、まだ自分は一人だと思ってる‥?」
「…え?」
「最近、毎日お薬飲んでるね…」
「!」
驚愕して、思わず手が止まった燐に構わず、しえみは続ける。
「言ったら燐、隠しきれなかった自分を責めるかなって思ったけど、やっぱりほっとけないよ。…辛いこと全部溜め込んで、私に心配かけないようにって一人で苦しんで…眠れなくなってるんだよね」
「‥そんなのじゃねぇって…寝れないのは今日だけだし‥」
「違うよ。お願いだから、本当の燐を隠さないで」
穏やかだったが力強く放たれた言葉に、燐は目を見開く。しえみは尚も穏やかな口調で続けた。
「隠してもわかっちゃうよ。だって、私たちは好きで一緒になった夫婦で、私は毎日1番近くで燐を見てる、燐の奥さんだから。」
「…しえみ、」
「ねぇ燐。私は燐が好きで、大好きで、誰よりも近くで支えたくて一緒になったよ…」
しえみの金の睫毛が涙を纏い、ふるふると揺れる。雫と雫がくっついて、伏せられた睫毛からポロッ‥とこぼれ落ちた。
「私、燐が思ってるほど弱くないよ。凄く図太いし、立ち直りも早い…だから、受け止められるよ?燐のこともっともっと、全部受け止めたいよ…」
しえみからポタポタと落ちる雫がシーツに染みを作っていく。月光を映した涙が星のようにキラキラと光って、ああ、綺麗だな‥と思った。
流れている涙は自分を想っての涙。そう思うと、燐の胸には何か熱いものがじわりと染み渡り広がっていく。
誰かが自分を想って泣いている。その誰かが居る限り、一人じゃない。
目尻が熱くなって、燐の頬に温かい雫が流れた。
「ありがとうな‥しえみ」
燐はしえみをそっと抱き寄せた。しえみが胸に擦り寄ってくる。二人分の熱が温かい。彼女の心地好い体温を感じていると、やがて燐を少しずつ、睡魔が襲ってきた。
(次に見る空は、綺麗だろうな‥)
眠気でぼんやりした頭でそう思いながら、燐はゆっくり瞼を閉じて、しえみと二人、心地好い眠りの中へと吸い込まれていったのだった。
I can't help falling in love with you.(君を好きにならずにはいられない。)