(メフィしえ)



コンコン、と誰かが戸を叩くような音が遠くで鳴っている。それはしえみがいま見聞きしているすべての中では妙に浮いていて、異質なものに感じられた。何が夢か?現実か?ハッキリと判別できないまま、ふわふわとした真っ白な世界のなかを、まるで泳ぐように浮遊しながら歩く。



『しえみ。杜山しえみ』


すると、今度は遠くから、誰かがしえみを呼ぶ声がした。


『杜山しえみ。起きてください』

笑いを含んだ、愉快そうな声が聞こえる。


(私を呼んでいる、貴方は誰なの?)

ふわふわ、ふわふわ。体は軽い。
柔らかい毛布か何かに包まれている感覚がとても心地好くて、しえみはその場から離れる事を拒んだ。

『起きてください、しえみ。…まったく、強情なお姫様だ』

起きろと繰り返すその声を、しえみは不思議に思いながら受け止めていた。

(起きる…?どうして?私は今、起きているのに‥)

柔らかい綿の山にゆっくりと腰を下ろす。指先で触れると滑らかで何とも気持ちがいい。

(ああ、ずうっと此処に居たいなぁ)

しえみは幸せそうに、満面の笑顔でふわふわとした塊を手繰り寄せた。抱きしめて、擦り寄るように頬を寄せる。
ふわり。
顔に当たる柔らかなそれに、しえみは更にほお擦りをして唇を寄せた。

(…あれ?)

しえみの唇は、綿ではない柔らかさを感じて一瞬だけ戸惑ったが、今は幸せ過ぎて、細かい事は気にならなかった。

「幸せ‥」

蕩けそうな吐息を零し、うっとりと呟く。


『それは結構』

(!?)

先程、遠くから聞こえていた声が今度は耳元で聞こえて、しえみは一気に現実へと引き戻された。


眼を開けると薄暗い闇の中で至近距離に何かの存在を感じる。思わず体をずり下がらせて距離をとった。すると、"ぱちん"と指を鳴らす音がして部屋の中の明かりが一斉に点り、明かるくなった。


「…え!?え!?」

眩しさに手の甲で影をつくりながら、しえみは慌てて体を起こした。だが、勢いよく何かにぶつかりその衝撃でベッドに引き戻されそうになる。しえみは咄嗟に目の前の何かを両手で挟んでしがみついた。重力に逆らい必死に縋り付いているうちに、しえみはそれが人の体の、しかも胸板の辺りだと気が付いた。しえみは悲鳴を上げて急いで距離をとろうとしたが、時既に遅く、いつの間にかその誰かの腕が腰に回されて、がっちりと捕まれていたのだった。


『おやおや、お姫様。今日は随分と積極的ですね』

その声に、しえみはもう眩しさなど気にせず顔をあげた。すると、唇がくっつきそうな至近距離に、にんまりと奇しく笑うメフィストの顔があった。

「ひゃああっ」

しえみは悲鳴をあげて離れようともがいたが、もう既に捕まってしまっている為、どんな抵抗も意味がなかった。


「どどどっどうして、」

「ん?なんです?」

「メ、メフィストさんがここ、こんなところに…」

しどろもどろに言葉を繋ぐしえみに対し、メフィストは「何をおっしゃる」と薄く笑った。

「恋人へ会いに行くのに、約束が必要ですか?」

当たり前のように言ったメフィストに、しえみは目を見張り、思わずもごもごと口をつぐんでしまう。メフィストは愉しそうににやりと笑うと、

「そちらから抱き着いてきたというのに、随分ですな」

やれやれと、わざと悲しそうに眉を下げてみせた。

「…、きゃあッ」

そして、困惑しているしえみの体をひょいっと持ち上げ、もう驚き過ぎて声も出ないしえみをベッドへ丁寧に座らせて、再び指を鳴らした。
ポンッという軽快な音と共に現れた温かいホットココアを、これまた何処から現れたかわからないマグカップにトポトポと注いで、彼女へと差し出した。


「…」

「実は今日は、お誘いがあって来たのです」

「…お、お誘い‥?」

「はい。他でもない、貴女だけにね」

そわそわと落ち着かないながらも、しえみはメフィストから手渡されたホットココアを受け取り、ジッと彼を見詰めてから、ふぅふぅと息を吹き掛けて恐る恐る口をつけた。

「‥あ、美味しい…」

ジワリと広がる甘味と温度に、僅かだが安心する。気分が落ち着いたしえみにメフィストは「それはようございました」と再び笑った。


「あ、あの…お誘いって‥」

空になったマグカップをメフィストに渡し、彼が指を鳴らしてマジックのように消してしまった後、しえみは恐る恐る話を切り出した。

「至って簡単です」

「はぁ…。」

にやりと奇しく笑うメフィストに、聞いてよかったのかなとしえみはまた不安になる。


「今から少しだけで構わないのです」

「は、はぁ…。」

「夜の散歩へ行きませんか?」

「……… へ?」

(え?散歩?いま散歩行こうって言った!?)

しえみはメフィストの発言に混乱しながらも時計を見た。
針は、ちょうど12時を回ろうとしている。もう少しすれば、日付が変わる頃だった。
視線を戻し、不安げに見上げたしえみに、メフィストはうっすらと笑うと「心配はご無用」と言って彼女の正面に向かい合うかたちで跪ずいた。

「!?メフィストさん…?」

「しっ、黙って。」

メフィストは自分の唇の前に人差し指を立ててから、彼女の華奢な左手をとった。そしていつ調べたのか、サイズがピッタリのキラキラと美しく輝る指輪を、薬指にするりとはめた。


「結婚して下さい、しえみ」

「……へ、え?いや、え?」

「…それが返事と…お受け取りしたほうがいいのですかな」

「へええぇ、‥ッちち、違います」

しえみは自分の手とメフィストの顔を何度も何度も見比べ目を白黒させた。

(けけけ結婚!?わっ私が、メフィストさんと!?)

ひぃひぃと唸っているしえみにメフィストは構わず「なら、もう一度。」と言って手をとった。


「しえみ、私と結婚して下さい。必ず幸福にします。貴女の骨まで私は愛し続けます」

(骨…!?)

「…わ、わわ私でよければ、よっ喜んで」


引っ掛かる部分はあったものの、薬指に優しく口づけてくれたメフィストに、しえみは嬉しくてくすぐったそうに身をよじった。



――――



「ではしえみ、参りますよ」

「…え?何処へ…?」

「おや、先程から言っているではありませんか。夜の散歩ですよ」

「え!?」

(…ハッ!もしかして…)


「メ、メフィストさん。夜の散歩の行き先は…?」

「何をわかりきった事を。

モチロン、虚無界ですよ」


(!!?)








(これから父上のもとへ、私の可愛い花嫁を紹介しに参ります。因みに、虚無界の門はもう開いていますので)

(へええぇっ!??)

(そうだ、しえみのママ上殿にも御挨拶をしなければ)



拝啓、しえみのママ上殿

娘さんを、虚無界へ下さい。



(わ!私が!?私が嫁ぐんですか!?虚無界へ!?)

(…え。もしかして、私が婿入りするんですか?物質界へ?)



拝啓、メフィストさんのお父様の青焔魔さん

息子さんを、物質界に下さい。

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