(燐しえ)
燐としえみが夫婦



朝。
アラームの音で目が覚めると隣にしえみがいて、一緒のシーツに猫背で包まりながら、すやすやと規則正しい寝息をたてていた。
しえみの人より少し高めの体温と穏やかな呼吸を感じ、独りじゃない安心感と、彼女が生きている幸せに浸る。起こさないようにそっと頬を撫でると、艶やかな睫毛がぴくりと揺れてから『んー…』と小さく唸る声が聞こえた。瞼の隙間からエメラルド色の瞳がゆっくりと現れて、その瞬間、燐の心臓は大きく跳ね上がった。


(やべ、起こしちまった‥)

動揺を隠せず、慌てて離そうとした燐の手を、熱を孕んだしえみの手がそっと包み込んだ。

「!」

しえみの柔らかい手に掴まれ、鼓動が速まる。更に増した戸惑いを隠せないまま、燐は、しえみの手と掴まれた自分の手を何度も見比べた。


(…しえみの手、ちっせぇ‥)

そんな今まで幾度となく思った、当たり前の事にまでもいちいち動揺していると、


「…りん?」

眠たそうに空いた方の手で目を擦りながら、しえみがゆっくり起き上がった。


「あ…しえみ、起こして悪ィ‥」

「…」

焦って謝る燐を、しえみはいまいち焦点の合っていない眼で見詰めている。燐は息を呑んでドキドキと煩い自分の心音を聴きながら、その瞳を覗き込むように見詰めた。すると、しえみの手に急に力が入り、掴まれていた手を身体ごと一緒に引っ張られた。バランスを崩して傾いた燐の体は、そのまま重力に従うようにしえみの柔らかい身体にふわりと抱きしめられた。


「し、しえみ!?」

「燐…おはよう」

寝起きで少し掠れたしえみの声に鼓動が高鳴る。しかも、体温が移りそうなぐらい密着している状態で言われて、燐の心臓はまた大きく跳ね上がった。

「おおおはよ‥きっ、急にどうしたんだよ‥」

落ち着かない燐に、しえみは『ふふふ』と笑った。


「どうもしてないよ。それより燐、昨日はよく眠れた?なんか寝言言ってたけど」

「お、おう…え?寝言?」

「うん。むにゃむにゃ言ってたよ」

「むにゃむにゃ…?」


(っていうか、しえみの体‥柔らけぇ‥)

一応は返事しつつも、燐の思考は逸れていた。

「何か夢見てたの?」

「夢…いや、覚えてないけど‥」

(しかもすっげーいい匂いがする…)

紅潮していく頬を見られるのが恥ずかしくて、燐は隠そうとしえみの肩に顔を埋めた。埋めた瞬間ビクリと撥ねたしえみの体に驚いて、体を離そうとしたが、しえみが燐の体を強く抱きしめた為に叶わなかった。


「…」

「…、しえみ?」

「……」

「しえみ?どうした?」

(…なんか、様子が変だ‥)

黙ってしまったしえみを不思議に思い、燐は不安げに尋ねた。

(あ、もしかして疚しいこと考えてたのがバレたとか…?)

青ざめる燐を他所に、しえみはクスクスと笑い始めた。


「燐…」

「…な、なんだよ」

「燐、いい匂いがする」

「…、は?」

一瞬、しえみが言った事を理解できずに燐は首を傾げた。だがそれはほんの数秒間だけで、直ぐに顔に熱が集まってゆく。体を少し離しおずおずとしえみを見ると、エメラルド色の瞳と視線が重なった。どこか安心感を与えてくれるその瞳を見詰めていると、なんだか違う世界に行ってしまったような、世界に二人だけの様な錯覚を興す。しえみの瞳は綺麗で、まるで宝石のようだ。綺麗だなぁ‥と思いながら、そのキラキラと輝く瞳を見詰めていると、しえみはニッコリと太陽のような笑顔を見せた。

「ねぇ、燐の目‥とっても綺麗だね」

いま正に同じ事を考えていた燐は、嘆願するように零したしえみの言葉に面食らい、ぱちぱちと二度瞬きをした後、更に顔を真っ赤に染めた。

「あ、ありがとな。しっ‥しえみの目の方がずっと綺麗だ。キラキラしてて、宝石みたいで、吸い込まれそうになる‥」

燐が真面目な顔でそう告げると、しえみは燐の顔をまじまじと見詰めた。そして、

「…ふふ、ふふふっ」

と、小さく笑い始めた。
燐はなぜ笑ってるのか判らず、不満そうにしえみの顔を見詰め返した。

「わ、笑うなよ。ホントのことだろ」

「ふふ、そっかぁ‥宝石みたいかぁ。ありがとう、とっても嬉しいよ。燐の綺麗な眼はね、海みたい。見詰めていると、深い深い海に包まれるような安心感があって、とっても落ち着くし、優しい気持ちになれるの」

そう言って、しえみは燐の頬に両手を添えて破顔してみせた。今まで誰にもそんな風に言われた事がなかった燐は、なんだかくすぐったくて、恥ずかしくて、むず痒そうに口を歪めた。
間近に見えるしえみは、ふわりふわりと微笑んでいる。しえみの笑顔はいつも優しいけど、最近さらに優しく笑うようになった気がする。

(何て言うか、天使とか女神みたいな…こう、温かくて、柔らかくて、光ってて‥眩しい感じ…?)

「‥ねぇ、燐」

優しい声に『なに』と目で返す。しえみが溶けそうな笑顔で燐を見ていた。


「燐が海で、私が宝石なら…私たちの子供の瞳は、海に落とした宝石の色をしてるのかなぁ」

そう言って、しえみは燐の右手を優しく掴むと、自身の下腹辺りにゆるゆると当てた。


「…え‥、」

「昨日ね、病院に行ってきたの。6周目だって。燐、パパになるんだよ」

頭が付いていかず、間抜けにも口をポカンと開けている燐にそう言って、しえみはまだ膨らんでいないお腹を燐の手ごと優しく撫でた。

「…あたたかい‥」

「うん。そうだね」

「…おれ、父親になる‥のか」

「そうだよ。燐お父さん」

「…父親が半分悪魔で‥子供は俺のこと恨んだり‥しねぇかな」

前に乗り越えたはずのコンプレックスが顔を覗かせて、急に不安になってゆく。

「俺に‥、愛せるかな…」

自分の弱さに動揺して自然と震え出した燐の手を、重ねていたしえみの手がぎゅっと握った。

「わからない。だってそれは、その子が生まれてから決めることだから。でも、燐は?自分が生まれたこと、悲しいと思う?」

「‥、俺は…」

悪魔の子として生を受け、それだけの理由で人々の憎悪の対象となり、何度も命を狙われた。いつも孤独感が自分の心を蝕んで、ずっとずっと苦しかった。だけど、父親や弟、たくさんの友人や仲間、何より支え合える愛しい人に出会えて、愛される幸福を知れた。それは、こうして生まれて来たからに他ならない。諦めて死んでしまったら、こんな幸せも感じられなかった。だから。


「…思わねぇ」

「燐…」

「今は、愛してくれる人達に出会えて本当によかったと思う…」

「うん‥。燐は、大事なことたくさん知ってる。愛する喜びも愛される喜びも。私のことも、こんなに愛してくれてる。だから‥大丈夫。きっと、大丈夫」

大丈夫だよ‥そう繰り返すしえみの言葉が、安定剤のように脳へ浸透していき、気持ちが落ち着いた。


「ねぇ、燐。今どんな気持ち?」

「…幸せ過ぎて、死にそう‥」

「ふふふ、よかったね。この気持ちを、たくさんの幸せを‥私達の子供にもいーっぱいあげようね」

「うん…しえみ、俺‥、世界一幸せだ‥」

「燐‥。ありがとう、私も世界一幸せだよ」

「…、っ」

言いたい言葉は山ほどあったけど、言葉に詰まってしまって何も言えなくなった。だから、言えない言葉の分、しえみを強く抱きしめた。幸せが嗚咽と涙となって溢れ出して、声を出してわんわん泣いてしまった。しえみは、『燐、子供みたい。パパになるんだからしっかりしてね』と言っていたが、満更でもないようで、笑って、燐の背中に腕を回した。

「赤ちゃん、あなたのパパはとっても優しくて、温かいでしょう?ママもパパも、早くあなたに会いたいな‥」


嬉しそうに微笑むしえみの表情は、天使のそれでも女神のそれでもなく、柔らかく優しい、母性に満ち溢れた母親のものだった。


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