(金しえ)
付き合って暫く経った頃
金造さんのキスは酷く短い。
春風が掠っていくかのようにたった一瞬触れるだけで、熱の名残さえ残さない。もっと、とねだりたいのに、彼は直ぐ自分の左手で、その形の良い口を隠してしまう。だから私の『もっと』はいつも叶わず仕舞いだ。物足りなく感じている私の不足分を補うかのように、キスの後はとても優しく接してくれるから、結局いつも不満を飲み込んでしまう。でも、今日は。今日こそは…
「金造さん、」
「なに?」
「…離して下さい」
「え?」
胸に手を着いて離れようと試みたが、やはり力では敵わなかった。いつもは「しえみちゃんには敵わへんなぁ」とか言っているけれど、ああ、やっぱり男の人は強いんだなぁと、こういうふとした拍子に見せ付けられてしまう。
「‥急にどないしたん?」
「大事なお話があるんです」
「‥大事な、話?」
「はい…」
「それは‥、聞かれへんわ」
金造の予想外の返答に、しえみは驚いた。
「どっ、どうしてですか?」
「どうして?ほしたら逆に問わせてもらうけど、なんで俺から離れたいて思うん?」
そう言った金造の声が、なんだか泣きそうに感じて気になったが、しえみの今の体勢からでは確認することができなかった。
「…い、いま質問をしているのは私ですよ‥」
正直に言った方がいいのかな、と思う。でもそんなの恥ずかし過ぎる、とも思う。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、心の中で二人のしえみが闘っていると金造が口を開いた。
「しえみちゃん…俺のこと嫌いになってしもたん?」
「…えっ?」
「、ごめん」
「‥金造さん?」
なんだか心配になってきたしえみは、とにかく金造の顔を確認しようと思い、もう一度そっと彼の体を押した。すると、今度は難無くあっさり離れていって何だか拍子抜けしてしまう。
「あ、あの、金造さん‥」
「ごめん、俺…」
(…え?)
顔を上げたしえみの目に映ったのは、眉を八の字に垂れ下げ、弱々しく肩を落とす金造の姿だった。
「金造さ‥」
「しえみちゃん、ホンマごめんな。俺、しえみちゃんが嫌や思てたなんて知らんでいつも勝手に…っ」
「ち、違います!嫌な訳じゃないです!」
どうしよう、どうやって誤解を解こう?
しえみは困惑を隠せず、オドオドとうろたえ始めた。フイッと顔を横に逸らした金造の瞳から、ポロリと雫がこぼれ落ちた。
「‥俺、しえみちゃんが好きや」
初めて言われた訳ではないのに、不意打ちだったことも加わってしえみの心臓は大きく跳ねた。だが、今はドキドキしてる場合ではない。しえみは意を決して、横を向いたままの金造の顔を両手で包むように掴み、前を向かせた。
「金造さん!」
「な、なん‥」
「だから勘違いしてますってば!」
「勘違い…?」
「はい。だって私、嫌な訳じゃないです。私も金造さんが好きだから」
「え…、せやったら‥」
「だから、その‥」
「…?」
「いっいつもの短いキスじゃ物足りなくて寂しかったから、その‥さっきはそれを伝えたくて‥」
顔が熱い。火が出ているんじゃないかと思うくらい。たぶん、茹でたタコみたいに顔が真っ赤になっているであろうことは、しえみ自身わかっていた。
「…ふ、」
恥ずかしさにギュッと目をつむったしえみは、ふと、目の前の金造が静かに笑っていることに気が付いた。
「…き、金造さん?どうして笑って‥」
「しえみちゃん。今の言葉、俺の都合ええように解釈しても構わへん?」
「‥え?」
「いつも俺がしえみちゃんにキスすんの、なんで直ぐ止めるかわかる?」
「‥??」
しえみは頭が付いて行かず、早口で話す金造を唖然と見ていた。先程の様子と一変して金造がニコニコと笑っていることも、しえみの混乱を余計に煽った。
「今までずーっと我慢してたんやけど…どうやら必要なかったようやね」
「?金造さ…、!んっ」
耳元で金造がそう囁いた次の瞬間、しえみは噛み付くようなキスに捕まった。捕食されるように貪られ、逃げ腰になったところを、腰に腕を回されて妨げられた。
「しえみちゃんが相手やと止まらんくなるから我慢してたのに」
「‥、っ」
貪欲に求められて、酸欠で体から力が抜けていく。溶けてしまう程の甘く深いキスのあと、銀糸をひきながら唇が離れて行った。ゆるゆるとうなだれて視線だけ動かすと、離れた唇がゆっくりと弧を描くのが見えた。濡れて輝るそこから視線が離せない。トロンと垂れる体を金造に抱き寄せられ、押し倒された。力が抜けたしえみの体は、抵抗もできず、されるがままになってしまう。ギシリと軋むベッドにまるで縛り付けられたように、体は自由を失ってゆく。
「もう我慢せぇへんから、覚悟してな」
耳元で熱い吐息と共に吐き出された言葉をゆっくりと咀嚼するように、脳で理解を試みた。だが熱に飲み込まれた頭では正常な思考がままならない。それでも何度も脳内で反芻してから金造の顔を見上げると、獰猛な視線と視線が絡んで背筋からゾクリと震えた。ギラつく瞳から視線を逸らせない。捕食者に睨まれた獲物のように瞬きすら忘れてしまったしえみの体は、何処からか沸き上がる期待を隠せずにじわじわと疼き始めた。茹だるような夜の熱に溶けながら、しえみはようやく、自分が檻から出してしまったのはただの獣ではなく猛獣だったのだと気付いたが、全てはもう手遅れだった。
(私の彼は貪欲なオオカミでした)