(アマしえ)
死ネタ
ずっと繋いでいた手は温かくて、温か過ぎて。
いつの間にか馴れてしまった僕は、その温かさを当たり前だと思って、失う怖さを忘れていた。
そして離した時の寒さでやっと、あの手が温かかったことを思い出す愚か者になっていた。
ずっと側にいる約束の証が、薬指から外れて落ちて転がった。
指輪が大きくなった訳じゃないのに、何度はめ直しても外れて落ちる。たったそれだけで、約束がなくなったような気がして恐くなった。そんなに弱い約束じゃなかったはずだ。僕達の関係は、そんなに簡単に崩れてしまうほど脆くはないと思っていた。
「しえみ」
縋るように呼んでも、何も変わらないのは知っている。人間である彼女の心臓は、弱いなりにもう十分働いたのだから。彼女は人間で僕は悪魔。彼女の一生は僕の一瞬だった。
ベッドに横たわっているしえみは、枯れた植物みたいな手を僕に伸ばした。僕はそれを、毎日しているように両手でとる。以前は嫌いだった弱い生き物。見るのも嫌だった弱り切った姿。それを今この瞬間、確かに愛しい、美しいと思っているから不思議だ。
「アマイモンくん…」
「はい。」
「ごめんね」
「…何が、ごめんなのですか?」
「約束。破ってしまうから」
だからごめんなさい。と、しえみは力無く謝った。
「予め謝るなんて、狡いです」
「そうだね。狡いね、私‥酷いよね」
しえみは呟くように零した。
本当に狡いのは、それをしえみに言わせた僕で、酷いのは、出来ない約束をさせた僕の方だ。それなのに、僕はまだ彼女を責めた。
「約束は守るものではないのですか」
「うん‥守るものだよ」
「なら、守って下さい」
「…ごめんなさい、守れないの。」
謝って欲しいわけではない。
本当に言って欲しい言葉は別にある。だけど僕は不器用で酷い悪魔だから、いつも言葉が足りない。少ないながらも選んだ言葉はキツイ表現ばかりだと、何度、兄上に注意されたかわからない。だから今までたくさん彼女を傷つけてきたと思う。愛の示し方は理性的でなく、動物的だったかもしれない。
「謝らないで下さい‥しえみ」
「でも、」
「君のごめんはもう聞きたくありません」
「それでも謝りたいよ…私はもう貴方にそれくらいしかできないから‥ごめんね、アマイモンくん」
僕は思わず顔を歪めた。
彼女は誰かにつけられた傷を自分で癒し、誰かの傷まで癒しに行く人間だ。不器用で酷い悪魔の僕を、親切で優しくて愛おしいと言ってのけるような人間だった。
しえみは痩せて細くなった手を、弱々しく僕の頬に滑らせて『アマイモンくん。』と繰り返し呼んできた。
「手を、ギュッと‥恋人みたいに握って欲しいなぁ」
「恋人みたいに…ですか?」
「うん‥ダメかな?」
「いいえ、構いません。」
駄目なわけがない。
僕は君に触れていたい。
思っても口には出せず、僕は黙ってゆっくりと、しえみの指に指を絡ませて痛くないように握りしめた。
「離さないで‥アマイモンくん」
「離しません」
「アマイモンくんの側に居て、ずっと一緒に…生きたかったなぁ」
「僕も、です」
もう、あまり握る力がないしえみの手に、左手も添えて包むように握った。しえみのすべてを包み込みたい。取りこぼすことなく、彼女のすべてを包み込んでしまえたらいいのに。
しえみは好きで離れるわけじゃない。それなのに、無理を言って困らせている僕は、最低で、最悪な悪魔だ。嫌だ嫌だと駄々っ子のように我が儘を言って、自分の気持ちばかり押し付けて。一瞬の寿命でも構わないから、彼女と一緒に終わりたいと願っている。
離れたくない。
叶わない願いばかり頭に浮かんでは消えていった。
「しえみ」
「なぁに‥?」
「僕のことを、どれくらい愛していましたか?」
聞けば、しえみは目尻のシワを更に増やして『いっぱい』と微笑みながら言ってくれた。
「いっぱい愛しているのに、置いてきぼりにするんですか」
「‥そうだよ」
「あんまりだ」
「ホントだね‥貴方を置いていきたくないなぁ」
「しえみ‥」
彼女の呼吸は浅くて、苦しそうだった。
「ねぇ、アマイモンくん、は‥」
「はい?」
「私の、こと‥」
「いっぱいです」
「‥え?」
「いっぱい愛していました。愛しています、しえみ‥未来永劫、貴女だけを」
「アマイモン、くん‥」
ありがとう。
しえみは幸せそうにニッコリ笑うと、ゆっくりと瞼を閉じて、最期に深い深い呼吸を繰り返してから静かになった。
「しえみ‥?」
握っている手の重みが増して、僕の胸はざわざわと騒いだ。
僕から落ちる透明の雫が、彼女のシーツを濡らしていく。
彼女と出会う前。
涙は、弱い生き物が弱ったときにだけ流すものだと思っていた。
でも彼女と生きていくうちに、それは間違いだとわかった。
嬉しかったり、驚いたり、色んな場面でそれは溢れ出す。
…でも。
いま流れているこの涙はやはり、弱い生き物が、弱ったときに流す涙で間違いなかった。
涙で水葬
(人の心を知って、弱さは優しさなのだと気付いて、僕は弱くなり、少しずつ君に近付いていった。)
(それでも僕は、人にはなれない。)