「ねぇねぇ、〇〇ちゃんは、はしるのやなの?」

「う、うん…あまり得意じゃない、かな」


目線の先に見える〇〇は、そう答えると困ったように微笑む。紫色と桃色を基調とした着物の袖がふわりと揺れて、微かにお香の心地よい香りが鼻奥を擽った。


「じゃあ、おにごとしましょ!」

「ええ!?いっ…嫌だよ!」

「いーからするの!わたしがおにね、じゅうかぞえたらおいかけるから!」


ゆっくりと数を数えると、○○は慌てて背を向けて駆け出していく。履物が汚れるのも構わず土を蹴る足や、髪に差した簪が揺れる姿に、名前は満面の笑みを浮かべた。














ゆっくりと目を開けた名前は、鼓動高鳴る心の臓を抑えられず、左胸に両手を当てて深呼吸をする。戸の隙間から見える外は、まだほの暗い。
横で眠る老翁と老婆はまだ目覚める様子もなく、起こした上半身を再び布団へ沈めると、天井をじっと見つめた。

今まで、夢なんて見たことがなかった。それなのに一年以上たった今に、しかも現実味のあるものを見てしまった。


(…あの子、誰だろう…)


着ていたものが女性物だったから、女子なのだろう。だけれど、目をしっかり見て話した筈なのに、顔が霧が掛かったかのように全く思い出せない。

華奢だけれど背の高い後ろ姿を思い浮かべる。もう一度同じ夢を見れることを期待して、再び目を閉じた。



* * * * *



腰まで伸びた草を掻き分け、足下を確認しながら一歩ずつ足を進める。途中で立ち止まり振り向くと、さっきまで見えていた村落は木々に隠れて見えなくなっていた。随分と遠くまで歩いていたらしい。
目的の場所に着くと、名前は小さく息を吐く。歩いてきた道よりも短い草の上に腰を下ろして空を見上げた。


「雨が降りそう…」


此処は、名前が老夫婦に拾われた場所。拾われて直ぐに此処に来たとき以来訪れていなかった此処は、あの時と変わらない。

女子の夢を見た時に、何となく此処に来たくなってしまった。特に記憶の手掛かりがある訳でもないのに、足を向けてしまった。


「…どうして、記憶がないんだろう…」


記憶を失うのは、頭を殴られた衝撃が原因もあるらしいが、その他にとても苦しくて忘れたいほど恐ろしい体験をした心が、それらから身を守るために記憶を封じてしまうのもあると旅の商人が教えてくれた。
自分の記憶が無いのはどちらが原因なのだろう。もしも後者だったらと思うと、思い出すのが怖い。

名前は帯にしまっていたあの布の袋を取り出す。桜貝を乗せた手はふるふると震えており、名前はそれを強く握り締めると、握り拳を額に当てて目を閉じた。


「大丈夫、大丈夫…」


呪(まじな)いのように何度も呟く。

どれほどそうしていただろう。気持ちが落ち着き、顔を上げて手の平をゆっくり開く。慰めるように綺麗に色付くそれに名前は頬を緩めた。



──ぽつ、ぽつ



開く手の平の上に落ちる滴に上を見上げる。額や頬に流れる雨に、名前は慌てて来た道を戻っていった。
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