海に囲まれた島、四国は第十九代当主──長曾我部国親の死後、息子である長男の長曾我部元親が第二十代当主として跡を継いで四国を統一していた。
旅の途中の商人達が、名前の住む村落に訪れる度に話題に出すのは、巨大な槍を振るい前線で勇猛果敢な戦いぶりを見せる“鬼若子”と、兵士達から慕われ熱狂的な親衛隊まで付ける“アニキ”の話。どちらも同一人物で、四国どころか、日の本全土にも伝わっているのに、自分の身元すら知らない名前はそれを二つのお伽噺を聴くかのように耳を傾けていた。



薄い雲が斑に掛かり、不気味な灰色を作る空を見上げながら無意識に腕を擦る。前に焼けた所は皮も向け、見事に前の肌を取り戻していた。
雨雲がやってくるやもしれん、老翁と老婆(おば)が呟いていたのを思い出し、つい先ほど手入れの終えた畑を見下ろした。


「気分は、どうだい」


目覚めたあの日、家の外ではシトシトと雨が降り注いでいた。
聞くと、裏の森へ山菜を取りに行った帰りに偶然倒れていたのを見付けて連れてきてくれたそうで。湿った髪の毛が雨の中に居たことを物語っていた。
名前しか思い出せない名前に、焦らずともその内思い出す言ってくれて早一年。何一つ思い出せず、もしかしたら雨水で記憶が流れ落ちてしまったのかもしれないと、そう思う頃から雨に当たるのを恐れてしまった。
そんな名前を励ましてくれていたのが、記憶を失った当初から持っていた御守りだった。

帯の隙間に挟んでいた藍色の布の袋。それを逆さにすれば、手の平に一枚の小さな貝殻が転がった。
老翁に聞けば、それは“桜貝”という桃色をした小さな二枚貝だという。瀬戸内の浜辺に落ちているらしいが、見付けるのが難しい貝だそうだ。
この話を聞いた頃から、海がどんなものなのか。白い砂浜とは何なのかこの目で見たくて仕方がなかった。


「名前や、そろそろお家に入りなさい」

「はーい!」


手に握り締めていた桜貝を帯にしまう。もう一度薄暗い空を見上げてから踵を返した。
太陽にかざすとより美しく見える桃色の貝を思い、明日は青空になることを願った。
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