久しぶりの豪華料理に、膳を運ぶ女中達のお腹がはしたなくも鳴ってしまう。名前もその一人だった。一本釣りで釣り上げた大きな鮪をはじめ、美味しい部分を惜しみ無く盛り付けたお造り。箸休めにと控え目に置かれた漬物は、ここの株女中のお手製。素朴な吸い物すら一つの手も抜いておらず、ふっくらと炊き上がった貴重な白米にとても合うのだろう。
普段では見られない御馳走の数々。訪れた客人の口に合うだろうか、なんて要らぬ心配なんだろう。取り敢えず、少しでも形が崩れないようにと持ち上げる。一人の女中が開けた戸から順番に入っていけば、そこには元親は勿論、長曾我部の家臣の者、そして石谷からの客人が鎮座していた。長曾我部とは違い、静かな雰囲気を醸す面々。中には知らなかったが、女性の姿もある。あまり顔を見ないように、緊張しながらも手元が狂わないように静かに置けば「ありがとうございます」と聞いた事のある穏やかな声で礼を言われた。思わず顔を上げて、目を見開く。
「あ…」
「先程ぶりですね、名前さん」
落ち葉を追い掛けていた時に出会った男子、石谷頼辰だった。涼しげに細められた瞳は、確かに名前を映している。
「名を、覚えていてくれたのですか」
「ふふ、忘れる訳がありません」
頼辰はそう言うが、名前はそうだとは思わなかった。こんなしがないただの女中の名など、普通なら覚える必要などない。
嬉しいのと恥ずかしいのが混ざり、名前は頼辰から少し視線を背ける。既に食事は始まっており、膳を運び終えた女中達は何かの為に待機していたり、それぞれお酌や話しの相手として広間に留まっていた。
「お酒、おつぎします」
「あぁ、ありがとう」
赤に塗られた盃に並々とそそがれた瀬戸の酒を、こぼすことなく口に運ぶ。一気に口に入れても顔色が変わらないのを見ると、いくらか強いのだろう。
もう一度と差し出された盃に、トクトクと静かにそそぐ。
「そういえば、貴女にお礼をしたかったんです」
「え?」
「素敵な場所、教えていただいたので」
「そんな…気に入っていただけて、よかったです」
自分が勧めて教えた場所だったが、その良さをそれを他人にも分かってもらえる事は、名前にとってとても嬉しいことだった。
「私達の住む場所からは見れない景色で、時間を忘れて魅入っていました。ただ、貴女の言う通り、あそこは人に見つかりにくい」
「それがとても心地好いんです」
「確かに」
もう一度注ぐと、中身が空になる。新しいのを持ってくるようにお願いし、そろそろ自分も持ち場に戻り仕事をしなくてはならない。
少し名残り惜しさを感じながらも、断りを入れて立ち上がる。去る直前に引き止められ振り返ると、口元に笑みを浮かべ、優しい眼がこちらを見ていた。
「よければまた、お話ししましょう」
「…こちらこそ、是非」
誘われたことが嬉しくて、つい頬がだらし無く緩む。また、少しでも言葉を交わせる機会があれば、他にも素敵な場所を教えてあげたい。大好きなこの地を堪能して、帰って貰いたい。
出ていく寸前、ちらりと中に視線を移す。その瞬間、ぱちりと元親と視線が合ったような気がしたが、確かめる間もなくその場を後にした。
* * * * * *
片付けを済まし、ようやく就寝出来るようになった頃、先程のバタバタと騒がしい音が絶え間無く響いていた城内は今や虫の鳴く声しかしない。
月光が照らす廊下を滑るように進む。このまま倒れるように寝れるかもしれない、と思いながら角を曲がり、襲っていた眠気が一気に吹き飛んだ。
「元親、様…?」
「…お、やっと戻ったか」
庭先に向いていた視線が、ゆっくりと名前に移る。瞬間、優しく細められた眼に胸が高鳴る。
「どうか、しましたか?」
「いや、別に何かあるって訳じゃねぇんだがよ…。少し、話せねぇかなってな」
ここ最近は普段の仕事に加え、客人を迎える為の準備等で忙しく、偶然でも元親に会える事がなかった。元親も元親で忙しかったらしく、必然的に一月以上も会話をしていなかった。
しかし、本来ならそれが当たり前の事で、一国の主と世話役でもない女中が対して話すことはあまりない。なのにこうして元親に、好いた人に気にかけてもらうのは、昔の事があっての事だとしても、とても嬉しい。
緩む頬に片手を当てて目を逸らす。熱くなっていく体温に、今が暗くて本当によかったと心底思った。
「無理してねぇか」
「はい。楽しくやっております」
「そうか、ならよかった。………あー…。あの、よォ」
少しの沈黙のあと、言いづらそうに口をもごもごと動かす。
なかなか切り出さない元親に首を傾げジッと見つめると、その視線に気付いた元親はポリポリと項を掻いた。困ったり、照れたりしたときによく出る癖だ。
言う決心がついたのか、咳ばらいし、外していた視線がパチリと名前を捕らえる。
「その、なんてェか…なんか、アイツと仲良かったな」
「アイツ?」
「石谷の」
「石谷の…頼辰様ですか?」
こくりと頷かれ、暫し考える。
確かに、気軽に話を掛けてくれて、お酌もし、多少の接点はあった。しかし、仲が良いという訳ではない。隔てなく接してくれるのは彼のもともと持つ優しさだ。だから、自分でなくても誰とでも彼は気さくに接するのだと名前は思っている。
「良くして下さっているのは確かですが、仲が良いという訳では…」
「本当か?」
「はい」
ならいい。そう言って笑った元親はその大きな手で名前の髪を撫でるように梳く。時折指先が耳に触れる擽ったさに肩を竦めた。
「…名前」
心地よさに目を細めジッとしていると、呟くように小さな声で名を呼ばれる。伏せていた瞳を上げると、鋭い片目が名前を捉えていた。
「この先何があっても、誰が何んと言おうと、俺だけを信じてくれ」
何を思って、何を感じてそう言ったのか名前には分からなかった。だけれど、あまりにも真剣なその眼差しに、名前は静かに頷くことしか出来なかった。