横に座る女の子を見つめる。弥三郎より幾つも幼く、頬は餅のように白く柔らかそうで両手は紅葉の葉のように小さい。
名を名前というらしい。元気良く告げられた時は驚いたが、嫌な気はしなかった。咄嗟に弥三郎も名を名乗ったが、今の己の姿が女であることに気付いた弥三郎はサッと顔を青くした。しかし名前はと言うとただ一言「やさぶろうちゃんね!」と言うだけで不審には思っていないらしい。
「やさぶろうちゃんはどこからきたの?」
「海の方だよ」
「ひとりで?」
「うん、一人で」
「わたしといっしょだね!」
同じであることが嬉しいのか、投げ出した両脚をばたつかせ体を揺らし、全体で喜びを表している。それは女の子としてどこか品の無いような行動だけれど弥三郎にはその自然にモノを表現する名前が輝いてみえた。
弥三郎は民と直接話したことが無い。いつも遠くから眺めて見るだけで、触れ合うことを制限されていた。戦に身を置かず悩みのなさそうな目の前の少女の無垢な笑顔に、羨ましい気さえした。
「…そろそろ帰らなくちゃ」頭上を飛ぶ鳥の鳴き声に、現実に戻される。早く帰らなくては城内が大騒ぎになってしまう。
立ち上がり、着物を払い砂を落とす。くるりと振り向くと、名前は少し寂しげな表情を浮かべていた。
「やさぶろうちゃん、帰っちゃうの?」
「ごめんね。名前ちゃんも早く帰らないと、親が心配するよ」
「…ん」
渋々、と言ったふうに立ち上がる名前の少し乱れた着物を整えてあげる。家まで送っていけない罪悪感に駆られながら背を向けて歩こうとした。
「またあえる?」
蚊の鳴くような、消え入りそうな弱々しい声だったが、確かに届いた。いつ会えるかなんて分からないし、次は上手く城を抜け出せないかもしれないのに、少女の小さな願いを否定することが出来ない。
「うん」
守れる保証のない約束でも、名前の笑顔が見れ、救われた気分だった。
* * * * * *
幸い抜け出したことはバレておらず、ひっそりと内緒で出回ることに味を占めてそれ以来、目を盗んでは城を抜けていた。行った先にはやはり名前が待っていて、名前を呼んだ時に見せた笑みに、約束を守れたことに人知れずホッとした。
沢山、話しをした。年齢や好きなこと嫌いなこと、子供特有の好奇心で質問攻め。それが飽きると次は土に絵を描く。名前がいつも描く人物は弥三郎と名前本人らしいが、どちらもお世辞にもうまいとは言えないものだった。
「これは何?」
「おうまさん。このまえはじめてみたの。おおきくって、とってもあしがはやいの!」
小さな体で大きさを表現する。のけ反り倒れそうになった背を慌てて支えた。
「わたしも、おうまさんぐらいはやくはしれるようになるの。そうしたらね、だれにもつかまらないもん」
「…そうだね…」
体力の無い弥三郎は疲れることが苦手だった。その気持ちが顔に表れていたのか、名前は不思議そうに首を傾げる。
「ねぇねぇ、やさぶろうちゃんは、はしるのやなの?」
「う、うん…あまり得意じゃない、かな」
嫌い、と言うのは忍びなく。曖昧に笑って答えると、少し考えていた名前は直ぐ何かを思い出したように立ち上がる。その顔がまるで悪戯を考えている子のようで悪い予感しかしない。
「じゃあ、おにごとしましょ!」
「ええ!?いっ…嫌だよ!」
「いーからするの!わたしがおにね、じゅうかぞえたらおいかけるから!」
いーち。にーい。
ゆっくりした数えに、着物が汚れ、髪が乱れるのも構わず走り出す。やっぱり直ぐに捕まってしまった。
追い掛けて、追い掛けられてを繰り返す。結果は惨敗で一度だって捕まえることが出来なかった。極限まで上がった息が苦しかったが、どうしてか、それ以上に楽しいと思った。
* * * * * *
名前と出会い、どれだけ日が経っただろう。名前と過ごす日々は弥三郎にとって唯一の安らぎだった。いつだったかたまたま海で拾った二枚貝の一つをあげたときは本当に喜んでくれた。
名前の言う友達というのがどんなものか実感した。高価な贈り物なんて必要ない、高い地位など関係ない。それを教えてくれた。
「わたし、うれしい」
「どうしたの?いきなり」
「やさぶろうちゃんにあえて、すごくうれしいの」
抱き着いてくる小さな身体を抱きしめ返す。頬がだらしなく緩むのも構わず「私も嬉しいよ」と言えばしがみつく腕の力が更に強くなった。
「またあおうね!」
何度も振り返って手をふる名前にふりかえす。姿が見えなくなるまで、ずっと。
夜が明けて朝を迎え此処に来て遊んでの繰り返し。それが永遠に続くと思っていた。『また』があることを信じていた。
「弥三郎さまがおられたぞ!」
だから、それが呆気なく終わってしまうなんて、考えたことも無かった。