「痛っ…!」


紙で指を切ってしまった。
先から綺麗にできた切り口からぷくりと血が滲んでくる。どうすれば良いか分からずじっと見ていると、横から白い手が伸びてきた。


「あらあら、切っちゃったの」

「母上」

「お薬、塗りましょうね」


側にあった棚から塗り薬を取り出すと、傷口の上に乗せて布を巻く。ひりひりと痛むものの血は止まったらしく、指を曲げて開いてを繰り返して感覚を確認した。

今のように指を切ったり躓いて転んだり、痛いことは嫌いだった。いつまでも痛みは引かないし血は出るし良い事がない。

布の上から優しく指を摩る。
早くこの痛みから解放されたいと思いながら、次こそは切らないように慎重に紙に触れた。



* * * * * *



今日の城内はいつもより騒がしい。その理由は弥三郎も知っていた。


父上が、帰ってくる。

厳しいと言われていただけに、勝ち戦だとの知らせがあった時は皆が手を叩いて喜んでいたのを覚えている。
それは弥三郎も例外ではなく、大好きな父が無事に帰ってくるとの知らせは不安な気持ちを落ち着かせてくれた。今か今かとそわそわと落ち着かない弥三郎を見かね、母が弥三郎を連れ出し門前へ向かう。
暫くして向こうから現れた集団に皆が皆、目を輝かせた。


「ただいま」


馬の上から降りた父の第一声だった。所々に傷はあれど大きな外傷はない。喜び抱き合う姿を見上げ、微笑む。

ふと鼻をつく鉄の臭いが風に乗ってきた。眉を寄せ、父の後ろに居た兵士達に視線を移した。


包帯に滲む赤。痛みに唸り、引きずる身体。一人では満足に歩けず、肩を借りる姿。歩く事さえ出来ず早々に運ばれる者。
別に、珍しいことじゃない。戦であれば必ずある光景。

以前に切った指に痛みがよみがえる。
ほんの少しの傷でもあんなに痛いのに、あれほどの傷を負い、堪えられるのだろうか。





「──…どうした、弥三郎」


名を呼ばれ、はっとして顔を上げる。心配そうに見下ろす父と母に曖昧に笑ってみせ、両手を伸ばす。脇に手を入れて軽々と持ち上げる父の首に縋るように抱き着いた。

大好きな父に触れられて嬉しいはずなのに。
その父から微かに香る血生臭さに、泣きたくなった。



* * * * * *



長曾我部の長男として、父の跡を継ぐようにと教養は勿論、立派な武士になるように稽古もつけられていた。
元が器用なこともあり、何でもそつ無く熟す弥三郎は洞察力も人一倍で、体力の問題はあれど師範からの支持も厚かった。

いつもなら練習用のものを使うのだが、今日は違った。
本戦用の、本物。重さはあれど振り回すには丁度良い。


「我を倒すつもりで、本気で来て下さい」

「えっ…で、でも…」


一つ違えば怪我では済まない。
戸惑いうろたえる弥三郎をよそに、師範は持っていた槍を構え出し、右の足で地面を強く蹴った。

咄嗟に握っていた槍で受け止める。練習の手合わせとは違うその重みと張り詰めた空気。

次々と襲いかかる師範の槍。もう無理だ、そう思った瞬間、僅か一瞬だけ隙が出来た。
それを見逃さずに弥三郎はその細腕で力の限り師範の槍を弾くと、目を瞑って勢いのままに振り回した。


「く…」


何かを掠る感触と師範の小さな唸り声に目を開く。
槍を持たない師範の左手の甲に出来た一つの傷。手首から肘にかけて一筋の赤が流れた。


「あっ…」


着物の裾で、流れる血を乱暴に拭う。上質な布に染みたそこだけが赤黒く変色していた。


「ご、ごめ、なさ…」

「心配無用です、少し油断してしまっただけで掠り傷程度ですから。さぁ、続きをやりましょう」


笑いながらそう言う師範の手からは、微量ながら血が次々と出ていく。

掠っただけ、たったそれだけのことだった。
だけど、少しでもズレていればもしかしたら、大事になっていた。取り返しのつかないことになっていた。


「あ…あ…」


槍を握る手が震える。それ以上掴んでいられなくて。手放したそれは足元でカランカランと音を立てた。



指にした小さな切り傷。
血生臭い空気。
微かに手に残る感触。


「むり、だ」


膝をつき、身を縮こませる。
震えを抑えるように、その身を守るように。


「無理なんだ」


人を斬ることも、人に斬られることも、ましてや戦場に赴く事さえ。


「僕には、出来ない」


立ち向かう度胸なんて存在しない。
あるのは、植え付けられた恐怖感だけだった。
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