瓦屋根から時折、ぽつりぽつりと音が鳴っている。見上げれば厚い雲から月が見え隠れしており、灯籠が無ければ辺りは真っ暗だっただろう。
足取りの重いまま回廊を行く。この先に居る人を思うと、正直なところ引き返したい。が、そんなことが出来る筈もなく、とうとう部屋の前まで来てしまった。
胸に手を当てて深呼吸をする。いつも通りにしていれば大丈夫だと言い聞かせた。
「…元親様、名前でございます」
「おう、入れ」
一つ間を置いて障子戸に手を掛ける。開けた先、部屋の奥でこちらに体を向け胡座をかき座る元親に目を伏せた。
畳の上を滑るように歩き、少し離れたところに腰を降ろす。膝の上で揃えた指先を緩く握りしめた。
「こうして二人で話すのは久しぶりだな」
「はい…半月ぶり、ですね」
「行った先々で珍しいもん貰って来たんだ。野郎共も喜んでたし、行った甲斐があったってもんよ」
「それは、良かったです」
元親の楽しそうな声色に名前も明るく返すが、下がる視線はそのままでまともに顔を見れていない。
膝元に落とした視界の隅で、元親が動くのが分かった。ビクリと体を震わせる名前に気付きながらも、ゆっくりと寄っていく。
どさり座り込む音に反射的に視線を上げる。思ったよりも近くにあった顔に驚いて身を引こうとしたが、それよりも早く左手首を掴まれた。
「逃げんな」
静かで低く、圧のある重い声。射貫かれそうな眼差しにのけ反った体をゆっくりと正す。
逸らす事が出来ない視線。緊張に喉を鳴らせば、元親は重かった空気を和らげ口元に微かな笑みを浮かべた。
それでも、掴まれた手が離れることはない。
「なぁ、どうして俺を避けんだ」
「あっ…」
「気付かねぇと思ったか?」
掴まれた手に徐々に力が入っていく。それでも名前が痛くないように気遣う優しさに、罪悪感が込み上げる。
自分の勝手な思いで今、少なからず元親は戸惑い、傷付いている。
でも、話したら最後、確実に何かが変わってしまう。
「いくら俺でも、黙ってられちゃ分かんねぇ」
ここまで言われて、これ以上、黙っている事は出来なかった。聞きたくて聞けなかったこと、聞くことが怖くて黙っていたこと。
抑えていたものが外れていくようだった。
「…以前、これを…」
帯から取り出したのは袋。中身を手の平に落とし、一つを元親に差し出す。片手でそれを受け取った元親は驚いた表情で、名前とそれを交互に見つめた。
「元親様のお部屋で見付けて、思わず手に取ってしまいました。返す機会がなかなか来ず、ここに…」
「…そうか、無くしたと思ってたが、アンタが持ってたか」
幾つか柔らかくなった眼でそれを見つめる。その眼差しがいつも自分に向けられているのと似ていて、胸が僅かに苦しくなった。
「貝殻なんていっぱいあるのにどうしても気になったんです。もやもやを抱えたまま、元親様が此処を出て暫くたった時、私は夢に出てくる子の名を思い出しました。…元親様の幼名と同じ、弥三郎という名の子」
名前の手を掴む手がぴくりと動いて拘束を緩める。伝わる動揺など気にも止めず、名前の口は動くことを止めない。
「思い出しました。幼い頃、これを私にくれた事も、いつも遊んでくれた事も…いつからか、私に会いに来てくれなくなった事も」
いつの間にか添えられているだけの大きな手に、自身の手を重ねる。
「私、ずっと…貴方に、嫌われたと思ってました。でもどうして、貴方は私に気付いてなお、此処に、置いてくれたんですか…?」
あの子だと気付いてもこの城から追い出さなかったのは、仕事を怠った責任を果たさなくてはという嫌々だったのか。それとも、今更追い出しては可哀相という気持ちからだったのか。
元親がそんな事を考える人間じゃないことは百も承知なのに、本人が否定してくれない限り、心の奥ではいつまでもそう考えてしまう。
名前の問い掛けから、ほんの数秒の沈黙。数秒なのに幾つも時を刻んだ程に長く感じる。
「…長くなるが、聞いてくれるか?」
無意識に下に向けていた視線を上げていく。眉を八の字にしこちらを見る眼は、目が合うと優しげに細められた。
「俺が元服するずっと前。まだ弥三郎だった時のことだ」
瓦を打ち付ける雨が、より一層強くなった。