「聞いてよ聞いてよ!」


休憩中に、やたら明るい声が響く。興奮したように皆に顔を向ける一人の女中に、もう一人の女中が顔を赤くして止めに入った。


「この子ったら、恋しちゃったんですって!」

「ブフッ!」

「きゃあ! やだぁ名前ちゃんったら!」


『恋』という言葉に口に含んでいたお茶を吹き出す。咳き込む名前の代わりに濡れた畳を拭いてくれた女性に礼を言うと、話をする女中達に顔を向けた。


「本当っ!? 何処の方なのっ?」

「漁師さんですって。ね?」

「は、はい…この間、絡まれていたところを助けていただいて…。その人のことを考えると、凄くドキドキするんです」


余程恥ずかしいのだろう。これでもかというほど、まるで林檎のように真っ赤になる頬。周りが盛り上がっていくほど、比例していくように染まっていく。
そんな彼女を見て、年上なのにとても可愛らしいと思ってしまった。恋愛事などまるで無縁というほど仕事熱心な彼女を、変えてしまう程の、恋。



「なら、いいんだ」



どんなものなのだろうと想像したとき、真っ先に思い浮かんだ顔。甘やかすような声色と、溜め息がこぼれ落ちるぐらい妖艶な表情。
先日のことが、鮮明に脳裏を過ぎる。

思い出したら恥ずかしくて、顔がほてっていく。しかし幸い、恋をしたという彼女に詰め寄っている御蔭か、誰一人として名前の変化に気付かない。
冷まそうとして、すでに温くなってしまったお茶を勢いよく流し込む。それでも消えない熱に、自分の身体なのにどうして良いか分からなくなった。



* * * * * *



皆が寝静まった頃は、名前にとって今までを考え振り返る良い時間だった。一人縁側に腰掛け、浮かぶ月を眺める。後数月経てば老夫婦に拾われてから早二年となる。確実に何かを思い出し掛けている事に、早く記憶を取り戻したい反面、少し恐ろしく思う事もあった。

無意識に溜め息が零れる。ぶらぶらと、投げ出していた足を揺らしていたとき、遠くからキシリ、キシリと音が鳴った。
顔を向けると、遠くに見える大きな人影がこちらに歩み寄ってくるのが見える。月明かりに照らされたその姿に、名前の顔は自然と綻んでいった。


「まだ寝てなかったのか」

「何だか、眠れなくて。元親様は、どうしたんですか?」

「俺もアンタと同じさ」


白銀に照らされた顔に柔らかな笑みを浮かべ、さも当然のように名前の隣に腰掛ける。互いに無理に何かを話そうとはせず、無言のまま空に目を向けた。


「…そろそろよぉ、海に出ようかと思う」


まるで独り言のようで、聞き逃しそうになった。空に向けていた視線を、弾かれたように元親に向ける。未だ上を見つめる横顔に、名前は口を真一文字に閉じた。


「溜めてた仕事も片付いてな。野郎共も、ずっと閉じ込められてかなわねぇって顔してっしよ」


睫毛に彩られた瞳が一瞬伏せられる。やっとこちらを向いた目が名前を捕えた。


「しばらくの間、大丈夫か?」


本音を言えば、凄く寂しい。その顔を見れるだけで、声を聞けるだけで、ただそこに居るというだけで安心感を与えてくれる人が、数日と会えなくなる。
だけれど、自分に引き止める権利などない。


「ここに来て大分たちますし、私は大丈夫ですから。元親様は今まで行けなかった分、楽しんで下さいませ」

寂しさを覆い隠すように浮かべた笑みは、不自然では無かっただろうか。複雑な名前の気持ちを知ってか知らずか、不意に伸ばされた大きな手は、前髪を掻き上げるように名前の額から後頭部まで優しく撫であげた。


「…ありがとな」


一言呟き、立ち上がる。おやすみ、という言葉に何も返せず見つめる名前の視線を浴びながら歩き出した元親の背は、角を曲がった所で見えなくなった。





ドキドキと脈を打つ。去り際の微笑みが、あの日の柔らかく甘い笑みと似て、余計に心が高鳴り悲鳴を上げた。まるで全力で走った後のように呼吸も苦しくて、身体の芯から熱を帯びていく。



「この子ったら、恋しちゃったんですって!」


「その人のことを考えると、凄くドキドキするんです」



可之助や他の兵士、慶次にはこんな気持ちにはならなかった。まるでこの心の臓が、元親にだけ反応しているみたいに。


「……好き」


言葉に出してみたら、すっと心が軽くなっていく。

名前を呼ばれると嬉しくなるのも、顔を見ると胸が苦しくなるのも、冷たくされると泣きたくなるのも。

一喜一憂するのは元親が愛おしくて仕方ないからだと、気持ちが素直に想いを受け入れていった。
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