夕刻の橙色に染まる空、沈みかけた陽の光を浴び、手には夕餉を抱えて廊下を歩く。向かう先にいる人物を思うと、自然と溜め息が零れた。



噂というのは、どうにも恐ろしい。始めは小さな事でも、気付くと肥大化しているのだから。
それに例外は無いのか、女中や兵士達が言い触らした名前の“男がいる”という勘違い話が尾鰭を付けて出回っているらしい。あの場に居なかった他の女中や兵士達までもが、擦れ違う廊下で真実なのか聞いてくるのだから堪ったものじゃない。

もしかしたら、元親の耳にも届いているのだろうか。もしも耳に届いているとして、どんな反応を見せるのだろう。驚いて他の者のように相手は誰かと聞いてくれるだろうか、それとも興味が無いと流されてしまうのだろうか。
もし後者だったらと考えると、一気に気分が沈んでいった。


「(この廊下が永遠に続けばいいのに…)」


なんて無理な願いだ。目の先に見えた戸を見据え、足音を小さくし深く息を吸い、吐く。手の物を足元に置いて、床に座りそっと声を掛けた。


「元親様、夕餉をお持ち致しました」

「…入れ」

「失礼致します」


短く素っ気ない返事をうけ、そっと戸を開く。一度礼をし顔を上げると、遠くの方に今だこちらに背を向け文机に向かう姿が目に入った。
名前は静かに部屋に入ると、邪魔にならない場所に静かに置く。かちゃりと鳴った箸の音にちらりと振り向いた元親は僅かに目を見開いた。


「なんだ、今日は名前が持ってきたのか」

「元親様のお付きの方が、今は手が離せないと言っていたので代わりに」

「……アイツ、余計な気ィ回しやがって…」


最後にボソリと呟く言葉が聞き取れず首を傾げると、元親は何でもないと首を振り、片膝ついて立ち上がり準備した夕餉の前に腰を降ろした。左手に玄米の椀、右手に箸を掴み、一口を運ぶ。箸使いのみならず、胡座ながら伸びた背筋。体格に似合わない上品な動作に思わず魅入る。汁物を軽く解き音を立てず啜ったところで伏せられていた目が名前を見上げた。


「…んな見られっと食いづれぇ」

「あっ…すいません。綺麗な食べ方だったので、つい…」

「行儀作法は小せぇ頃に嫌ってほど教わったからな。癖がついてんだ」


「似合わねぇだろ」と笑う元親に頭が取れそうなほど何度も横に振るが、それに嘘はない。見た目では豪快にいきそうと思っていたが、今目の前の元親の作法は違和感が全く無く、逆に絵になるほど自然なものだった。

気さくで人柄が良く接しやすいから忘れていたが、この人は将来当主となる者として、幼い頃から大事に育てられた存在なのだ。
改めて元親とは住む世界が違うのだと気付かされた気がして、少しだけ寂しくなった。


「そういやァよ」

「はい」

「あの、なんだ……昼間、騒がしかったな」


どきりと心の臓が跳ねる。まさかこの間合いでこの話題が振られるとは思わなかった。


「あ…近くにお客様がお見えになるということで、総出でお部屋を掃除していたんです。…すいません、騒がしかったですよね」

「いや、それは別に良いんだけどよ…」


口ごもる姿に、あの噂を耳にしたと分かった。途端に、嫌なほど心がドキドキと脈を打つ。

何と言われるのだろう。先程考えていた元親の反応の予想を思い出す。もしもあんなことを言われたら落ち込んでしまう。でも、少し期待するだけで噂を直ぐに否定せず言葉を待つ自分が此処にいる。


「その…野郎共が噂してんの耳にしてな。そんなことないって思ってたが…。名前がずっとそいつと居たいって言ってたって聞いて、少し、気になって」


コトリと、箸と椀を置く音が響く。その真剣な表情に自然と背筋が伸びた。


「違う、よな」


その瞬間に見せた縋るような、そうあって欲しいと願うような瞳に言葉を失う。いつも頼りある人が、いつもより余裕なく映る。

無言の名前にどのように解釈したのか、クッと寄せられた眉が眉間に皺を作る。膝に両手を置くと、少し前のめりになった。


「もしそうだったら、本当にアンタはそいつに付いて行っちまうのか、こっから離れるのか?」


どこか苦しそうに話す姿に、不謹慎だが心は嬉しくて歓喜を上げている。

どうでも良いなんて思われていない、こんな自分の事をこんなにも気にかけてくれた元親に満たされていくようだった。


「私はここが好きです。だから何があったって、ここから…皆さんのお傍から離れたりしません」


元親に手を差し延べられた時から、この身で恩返しをしようと心に決めていた。こんなにも居心地の良い場所から、元親の傍から離れたくはなかった。

名前の言葉に、ようやく元親はその顔に笑みを浮かべる。安堵したように息を吐き、細めた瞳が僅かに下を向いた。


「…そうか」


柔らかくどこか甘く感じるその声は小さかったが、確かに名前の耳に届いた。


「なら、いいんだ」


下げられた瞳が上がり、その右目に再び名前の姿を映す。
その眼差しが、まるで愛しいものを見るかのような錯覚を起こさせて、苦しいほどに胸を締め付けた。
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