「おかあさん、おかあさん!」

「はいはい、どうしたの?」


割烹着を着る後ろ姿に勢いよく抱き着く。びっくりしただろうに、怒ることもせず優しく問い掛け微笑んでくれる。それが嬉しくて顔をぐりぐりと押し付けると、頭上から母の笑い声が落ちた。


「おなじのふたつみつけたからって、○○ちゃんがくれたの!」

「あら、綺麗な貝殻。名前のお友達は海の近くに住んでいるのね」


小さくて柔らかい手の平に乗るものを覗きこみ、母がふんわりと微笑む。「ちょっと待っててね」と言い部屋の隅にある棚を開け何かを手に取り、再び名前の前にしゃがみ込んだ。


「無くさないように、これに入れようか」

「うんっ!」


渡された小さな袋にそっと入れる。紐で口をキュッと閉めると、名前はそれを大丈夫そうに胸に抱きしめる。
よく遊ぶ子だけど、物を貰ったのはこれが初めて。しかもお揃いの物なんだと思ったら、嬉しさは何倍にも膨れ上がった。


「それじゃあ、お手々を洗ってきなさい。お父さんが帰ってくるわよ」


頭を撫でる荒れた手、髪を解く細い指。落ち着いた声色を奏でる、優しげに弧を描く口元。この世で一番綺麗で、一番大好きな笑顔だった。




* * * * * *



数月後だが、石谷という方が此処に来るということで、早くからではあるが目に映る部屋全てを掃除していた。
敷き詰めたままだった古い畳の裏を、日の当たる場所に立てかける。棒で軽く叩くと、僅かだが埃が舞ったように見えた。ちらりと、隣の部屋に目を移す。女中も兵士も皆乾いた布で畳の縫い目を沿うように拭いているのを見てから、片手で袋がある辺りの帯を摩り、小さく息を吐いた。

やってしまった、そんな気持ちだった。今だ入ったままの元親のもの。返す機会を逃し、そのままずっと持っていた。こっそり部屋に入ることも出来ないし、手渡しで返したらそれこそ気まずくなる気がする。

ふと、夢を思い出す。この貝のお守りをくれたのも、鬼事をしていたのも同じ子だった。その子の名前だけが、穴があいたようにぽっかりと抜け落ちている。
はたして、どんな名前だっただろう。あ行だったろうか、か行だったろうか。


「とよ、おきく、かよ…、…違うなぁ。そんな可愛いらしい名前じゃなかったような…」


夢の中の自分は、どのように口を動かしていたのか。片手に棒を握り締め、ウンウンと唸りながら必死で思い出す。


「あ…あぶろう…? いや、かさぶろう?」

「名前ちゃんさっきから何ぶつぶつ言ってんだ?」

「うわあっ!! …あ、可之助さん」


同じく隣で畳を叩いていた可之助が、顔を覗き込み首を傾げ名前を見ていた。途端に独り言を言っていた自分に恥ずかしくなった。少しだけ顔を逸らしてふっと息を吐くと、再び可之助に顔を向けた。


「ある方の名前を思い出せなくって。どんな名だったろうって少し口に出してみただけです」

「ほうほう。んで、そのある方ってんのは、もしかして男か?」

「男? 何々、名前ちゃん男がいんのか!?」


可之助の言葉の最後だけを聞き取った他の兵士の一人が声を上げ、それを聞いた周りの人がいっせいに動かしていた手を止めて名前を見る。得に、持っていた布を放り投げ、詰め寄ってくる女中達の輝いた目に可之助は押され後退り、名前は口元を引き攣らせた。


「そんな話聞いてないわよ!どこのどんな人なの?」

「いや、あの、」

「この城の方…ではないわよね確実に」

「確実にってなんすか! ひでぇや姐さん!」

「あの、違うんです、実は」

「も、もしかして慶次様!?」

「前田の風来坊!? なんでまた…」

「この間来たときね、名前ちゃんったらあのお方と二人でお話ししたらしいのよ!」

「名前ちゃんにはやたら構っていたし、もしやとは思ってたけど…」

「キャー! いやよ慶次様ぁ!!」


壮大な勘違いをした女中達と、それに騙される兵士達が騒ぐ。
弁解の余地も無かった名前と、皆の気迫に圧倒された可之助の二人だけがぽつりと取り残された。


「…ごめんな、名前ちゃん」

「…良いんです」


盛り上がる皆を尻目に、名前は再び棒で畳を叩きはじめた。
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