慶次に頭を掴まれている、というのもあるが、それでなくとも名前は振り返えれなかった。慶次の後押しもあり謝れるかもと思っていた考えはガラガラと音を立てて崩れていく。


「なにしてるって、言ってんだ」


地を這うような、怒気を帯びる低い声色、糸を張ったように鋭くなった空気。
普段、温厚篤実な元親からは想像出来ない雰囲気に、身が凍り声が出ない。


「何って、お話ししてたんだよ。ねえ?」

「話すだけなら触んなくっても出来るだろうが」

「落ち込む名前ちゃんを励ましてたんだって!」


そう言いながらも離れることのない手に、背筋に嫌な汗が流れる。離してほしいと目で訴えると、慶次はふっと笑い静かに両手を離した。
そのことに安堵するよりも早く、片手が肩に置かれる。ゆっくりと顔が近付き、耳に唇が付くぐらい密着した。

囁かれた言葉に、目を見開く。


「慶次っ!!」

「頑張りな名前ちゃん! 元親もまたな!」


怒鳴る元親も気にせず、庭に降り立ち片手を上げて去っていく慶次に唖然と口が開く。嵐に巻き込まれたかのようなあっという間な出来事に暫く事態を飲み込めなかったが、訪れた静寂と重苦しさに再び身を固くする。
さわさわと風に揺れる木々と鳥の声。穏やかな情景に合わない雰囲気に、膝に乗せていた手をギュッと握り締めた。


「(二人っきりなんて無理無理無理…っ!)」


こんな空気にさせた張本人に小さな怒りを覚えた。

だが、ふと去り際の慶次の言葉を思い出す。途端、このままではいけないという気持ちになり、小さく息を吸う。顔を上げ、意を決して振り返った。


「あのっ…」

「慶次と何話してた」


名前の言葉に被るように元親が問う。振り返った先に居る元親の顔は、見たこともないほど歪められていた。戸惑いと怒りと悔しさが混じる表情に名前は息を詰まらせる。

ただの世間話ならば、迷うことなく言えるだろう。だが、内容が元親の事なだけに、何と言えばよいか分からない。
自分のことを話題にされるなんて気分良いものではないだろう。考えれば考えるほど、言葉が出ない。

何も言えずじっと元親の顔を見る。お互い何も言わず顔を合わせていたが、元親の顔が伏せられた。目元に影が出来、表情が窺えなくなる。口元が、自嘲するような薄笑いを浮かべた。


「慶次には話せて俺には話せねぇ、か」

「元親、様…?」

「ずっと一緒にいた俺よりも、今日会った慶次を頼るのか」


慶次が言っていた「励ましていた」という言葉を指しているのだろう。強く握られている拳が、ふるふると震えている。
元親の踏みしめる木張りの床が、ぎしりと音を立てた。


「元親様…」


背を向け去ろうとする元親に、胸が痛くなる。遠くなっていく姿に、視界がぐにゃりと歪んだ。



謝りたかっただけなのに、どうしてこうなってしまったんだろう。自分が早く元親に会いに行っていたら、素直に謝りに行っていたら。

後悔だけが押し寄せる。やるせなくて不甲斐なくて、悲しくなってくる。


「っ…」


いつまでも弱い自分が嫌になる。直ぐに泣いてしまうような女、面倒臭いと呆れられても仕方ない。
せめて、漏れそうになる嗚咽を抑えようと両手で口を塞ぐ。これ以上溢れ落ちないようにと、強く目を瞑った時だった。

ふわりと髪を撫でる感触。壊れ物を触るかのような優しい指先。


「…俺はいつも、アンタを泣かせてばっかだな」


もう行ってしまったのではないかと思った人の声に、顔を上げ目を張る。その反動で頬に滴が流れ、口を塞ぐ手に溜まった。

髪に触れていた手が離れ、代わりに両手首を掴まれる。口から手を離され、それと一緒に耐えていた嗚咽がひくりと漏れた。
ふっと細められる瞳に、わなわなと震える唇が、今しかないと勝手に開いていく。


「もとちか、さまに…謝ろうって…」

「うん」

「で、でも、あんな泣き付いて、元親様に、嫌われたんじゃないかって、怖くなって」

「…うん」

「前田様が、そんなことないって、背中、押してくれ、て…」

「そうか」


手を引かれ、身体が傾く。ぽすりと逞しい胸に倒れ、大きな腕で包まれる。赤子をあやすように背中と頭を撫でる大きな手に安心し、背中辺りをキュッと掴んだ。


「早く思い出そうと焦る気持ちも良く分かる。だが、それで無理して倒れられちゃあ元も子もねぇ。そうだろ?」

「…」

「だからどんなに時間が掛かろうと、思い出すなら無理矢理じゃなくて自分で思い出してほしいのよ」


撫でていた手が止まり、さっきよりも強く引き寄せられる。逃げることも叶わない抱擁に、胸板に当たる頬がじわじわと熱を持った。


「俺が教えられることは、正直無ぇ。だがアンタを支えてぇって思う気持ちは誰よりも強くある。
だから、アンタが俺じゃなく他の誰かを頼ったと思うと、何も考えられなくなるんだ」


──そうさせてるのは、俺なのにな。
小さく呟かれた言葉に、頭を大きくふる。いつだって頼っているのだと。どんなに小さな問題も元親の名を呼び、助けを求めてしまうのだと。

言いたいのに、胸が苦しくて何も言葉が出ない。だからせめて思っていることが伝わるようにと、控え目に背中に回した手にギュッと力を込めた。


「どんな些細な事でも良い。俺を頼ってくれ」


どこかが矛盾しているのに、迷いを与えぬ強い言葉。こくりと小さく頷くと、ゆっくり目を閉じた。
謝ろうと意気込んだ気持ちは、はぐらかされてしまったかのように行き場を失い漂う。だが、名前の心はいつもよりも晴れ晴れとしていた。
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