夢のような時間だったと、思わざるをえない。そんな気持ちになるほど、二人で出掛けた日は名前にとって心に残った。
またいつものように、女中としての仕事をこなす日々。本日も天気に恵まれ、井戸の近くで兵士達と共に汚れた衣類の洗濯をしていた。最初は皆恐面で恐れを持ちながらしていたが、今では仲良くやっている。
今日も世間で言う井戸端会議なるものをしていた。離れた場所に暮らす家族のことや、城下の行き付けの店、時には気になるあの子など、まるで女子の会話のようだ。だけれど名前は、この時を密かに楽しみにしていた。
「そういや、最近海に出ねぇなぁ」
「アニキも忙しいんだろ?今も自室に籠りっぱなしだしよ」
「でもよぉ、今までは放っぽり出して行ってたじゃねぇか」
兵士達によれば、今までは暇さえあれば家臣に政務を任せて海へ出ていたらしい。確かに、ここへ来てから早二月だが、ずっと城に籠り船に乗っているのを見たことがない。毎日のように整備はしているが、それだけだった。
「貞重さん、ちゃんと仕事するようなったって大層喜んでたなぁ」
「俺たちとしちゃあ、寂しいよな」大きく息を溢した兵士たちの手は、やる気をなくしたかのように弱々しく洗濯板に擦り付けている。落胆の色を隠しきれない姿に名前は苦笑すると、汚れて濁った水の入る盥を持ち上げ、井戸の側へと足を向けた。
なんだかんだ言っても、岡豊城は今日も平和である。
* * * * * *
手が思うように進まない兵士達は、干す作業に行く前に次の仕事の時間になったことに慌てふためいていた。どうやら次は女中頭に頼まれた掃除らしい。どうも彼らは女中頭に頭が上がらないらしく、あまりにも顔を青くしていたものだから見かねた名前が物干しを全て引き受けてしまった。
しゃがんだり背伸びしたりする作業は、腰にくる。労るようにトントンと叩き、空を仰ぐように見上げた。
この分だと、お八つ時前には全て終わるだろう。日も温かで長く夕刻に取り込めば全て乾いている筈だ。
そんなことを思いながら、再び干し始める。皺を伸ばして掛けていると、じゃりと砂を踏む音が後ろから聞こえた。
「元親様」
「おう、ちゃんとやってんな。一人でこんな終わんのか?」
「大丈夫ですよ。元親様は、お散歩ですか?」
「あぁ。ずっと座ってたら身体が鈍ってかなわねぇ」
肩や腕を慣らすように動かす仕草にくすりと笑みを溢す。見た目の通り、じっとしていられない性格なのだろう。ふと、兵士達との会話を思い出した。
「そういえば、皆さんが海に出たいと嘆いていました」
「そういや最近出てねぇな…」
「船で海を航るのがお好きだと聞きました。出られないのですか?」
首をかしげ問うと、元親は複雑に顔を歪める。言葉も出さず頭を掻く姿に、何かいけないことを言ったかと不安になる。
元親は足を進め、名前の隣に並んだ。風に煽られる度にバサバサと音を立てる洗濯物を見て、ふっと目を細めた。
「…今までよ、仕事を部下に任せては船を乗り回してた。ずっと座ってるよか、海に出て潮風浴びる方が俺には合ってるんだって。本当は政務も疎かにしちゃいけねぇって分かってたが、それでも風の吹くままに自由にやりたかったのよ。今の四国は平和だから、好きにしても構わねぇだろって。
だから海から帰ってきたとき、村が襲われたと聞いたときは、言葉が出なかった」
元親の言う村が何だか分かり、名前は静かに顔を伏せる。
忘れるわけがない。村がたちまち灰に変わる姿、逃げる人々、にやりと笑う顔と鼻に残る鉄の臭い。
どうしてここが襲われてしまったのかと、今でも思うときがあった。
「アンタの村を襲ったのは、大方物が目当ての賊だ。俺達の敵じゃねぇ。だから、未然に防ごうと思えば出来たのに、それが出来なかったのは俺のせいだ」
「…」
「こんなんなってまでサボっちゃあ、俺はあの親子にも、アンタにも顔向け出来ねぇ」
──すまねぇ
頭を下げる姿に、貴方のせいではないと言いたい。なのに声が出ず言葉を無くしたまま垂れる頭を見つめた。
その時だった。
脳を掠める、歪んだ光景。思い出すことを拒んでいるかのように、痛みで警報を鳴らす。
ずきずきと鳴る頭を抱え、痛みに耐えるようにぎゅっと目を瞑る。貧血をおこしたかのように身体が揺れ、力が入らない。
名前の様子が可笑しいことに気付いたのか、顔を上げた元親が目を見開いて名前の肩に手を置く。
「お、おい、どうした?」
「す、いません…、なんでもない、大丈夫、です」
目を開け顔を向けようとするが、身体が思うように動かない。目の前がチカチカと白くひかり、膝がかくりと折れた。
「おい、どうした!?しっかりしろ!名前!」
ずっと遠くで自分を呼ぶ声がする。返事をしようとするが、口が動かない。
だんだんと薄れていく意識にあがらうことも出来ず。ゆっくりと身を沈めた。