ごめんね、と、とても柔らかくて心地の良い声色で言ってくれるあの人がどんな顔をしていたのかをこちらからはは知る余地がない。と言うのもずっと彼がこちらに顔を見せないようにか俯いているからで、その顔をわざわざ覗き込んでまで本当かどうかを聞く勇気は自分にはないのだ。次に言われる言葉は分かっている。出会った時も、今と同じ様に綺麗に桜が咲いていたのだ。 「ケンジさん」 こんな時でも微笑を崩したくないのであろうその人の名前を、まるで続きを促すかのように呼ぶ。別れなど告げたくはないのが本音で、きっと彼もそうあってくれたら良いとは思うけれど、現実はそう上手くはいかないものだ。なまえくん、と静かにこちらの名前を呼んでくれるケンジさんに、俺はまだ返す言葉を持たない。 「今まで、ありがとう」 それはとても曖昧で不確定な言葉だったけれど、その意味だけは知っている。さようなら、だとか、一番聞きたく無い言葉が、副音声で聞こえて来てしまったような気がした。とても笑えない話だ。もしかしたら彼だって、その言葉を言いたく無いだけなのかもしれない。 そんな気持ちを他所に通り過ぎて行く風が、何かの花の花弁を運んで行った。そういえば、ケンジさんの好きな歌はこんな風に別れを告げる歌だったような気がした。 「好きです」 それが恋だったのかなんなのかは分からないけれどただひとつ、うん、と静かに呟く彼の表情で全てがわかった様な気がする。きっと彼も、同じ気持ちで居てくれたといいと思った。 さようならは言いたく無いけれど、きっと言わないといけないのかもしれないけれど。言わなくても、きっと生きていけるから。 とんでもない詭弁だと自嘲して少しだけ笑った。最後に同時に言った言葉を、俺はまだ覚えて居た。 「……またいつか」 劣情と君の間に/20120519 |