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エヴァルトはスキアーが出て行った扉を眺めながら、ため息をついた。
エヴァルト・ヴィルヘルムは、ヴィルヘルム家の長男として誕生した生粋の貴族だった。母エルザもそこそこの爵位を持つ貴族の娘で、父ヘルベルトは身分や爵位、育ちを重視する考え方を代々引き継いでいた。そのため、エヴァルトはヘルベルトから、容易く下階級の者に話しかけてはならないと教え込まれた。いつ寝首を掻かれるか、謀反を起こすか分からないだろう、といつもヘルベルトは同じような笑顔で言っていた。それを、よく妹のアリーナと聞いたのであった。
しかし成長し、学校で世界を学ぶにつれ、世界にはいろんな人間がいることを知る。
エヴァルトは昔から、好奇心旺盛な子供だった。それこそ顔には出ないが、屋敷の外の町やその向こうの町、果ては隣の国まで、いろんなところに行ってみたいと願っていた。
もちろん階級や爵位、身分は大切かもしれないが、エヴァルトが努力して勝ち取ったものではない。ヘルベルトもそうではない。先代のヴィルヘルム家当主が、努力して勝ち取ったものだと理解していた。だからこそ、身分を気にする父を滑稽に思った。狭い世界で生きる貴族を、馬鹿にした。
「…スキアー、か」
白い髪、肌を持つ、海の瞳を持った人間。
エヴァルトは、あんな容姿の人間を初めて見た。この国では、どんなに色素がなくても金髪止まりである。エヴァルトも、幼い頃から色素は薄かったが、特に肌色は周りとそう変わらなかった。
あんな人間が、世界にはもっといるのだろう。
この国ではなく、山も越え、海も越えた先に―――スキアーのような、美しい人間が。
エヴァルトはもっと多くの世界を見ていたく思った。爵位なんていらない。身分なんてもっといらない。自由にはなれない環境が嫌いだとは言わないし、恵まれていながら文句を言える立場でないことも分かっている。しかし、この貴族と言う足枷が、何よりエヴァルトを好奇心から引き留める。
望まない女と結婚して、子供をもうけて、それで何の波乱もなく、人生が終わる。
そんな人生は、果たして何のためにあるのか。
「…結婚……」
エヴァルトは力なく呟く。15歳の自分には、とても重い言葉だと思った。
今日、父ヘルベルトから呼び出されて聞いた話は、突拍子もないものだった。
内容は“婚姻”についてで、どこぞの貴族の娘が大層エヴァルトを気に入っているらしく、婚約したいと申し出ているらしかった。ヘルベルトは簡単にそうエヴァルトに伝えたが、エヴァルトはあまり良い気はしなかった。
顔も名前も知らない娘のことなんて、どう思うわけもない。
しかしヘルベルトを前にそんなことを言えるはずもなく、ヘルベルトの部屋から退出したエヴァルトは、気を紛らわせるために夜風を浴びに庭へ出た。使用人もいないようなひと気のない場所へ行きたくて、わざわざ寂しい場所まで来たとき、怪我をしたスキアーと出会ったのだ。
(こんな爵位なんて、いらないんだ)
ヘルベルトはきっと、エヴァルトの婚姻を爵位や世間体のためとしか思っていない。
しかしエヴァルトは、それが好ましくない。貴族に生まれ、貴族に悩む。平民からしてみれば羨ましい限りのそれは、平民にとっていつまでも分からないことかもしれない。
(俺は、自由が欲しい。誰にも何も言われない、そんな世界で過ごしたい)
ベッドに寝転がり、目を瞑る。
瞼の裏に浮かぶのは、辛そうに瞳を揺らす白い頭の少年の姿。
あの少年は、屋敷の中でもずいぶん身分が低いと言っていた。そんな少年からしてみれば、爵位や身分を捨てたいと願うエヴァルトは滑稽なのだろうか。
(…スキアー)
白い頭の少年を脳裏に浮かべて、ため息をつく。
きっとこのどうしようもなく惨めな想いは、誰にも届かない。
*
「おはよう、スキアー。今日は一段と寒いな」
下男の朝は早い。五時に起きて、ものの数分で支度をしてから、さっそく仕事を始める。ドユルはいつも朝が早くて、スキアーは朝が弱かった。
「傷は大丈夫か? 痛くなったり、酷くなったりしたら言うんだぞ」
ドユルがガーゼの貼られたスキアーの手を取り、言った。ドユルの真剣な黒い眼差しに、スキアーは笑いながら頷く。
「大丈夫だ、これくらい」
昨日の夜、エヴァルトが貼ってくれたガーゼは少し血で滲んでいた。それでもまだ使えそうに見えるため、スキアーはいまだにガーゼを貼ったままだ。ドユルは貼り直すよう言ったが、今のガーゼより良いものがないためそのうち口を閉じた。
「…じゃあ、行ってくる。今日も頑張れよ、スキアー」
「ドユルこそ」
ドユルを見送り、スキアーは箒を持って裏庭へ向かう。枯れ葉をいつものように掃いて、それから屋敷の外壁を布で綺麗に拭き取った。それがスキアーに与えられた仕事だった。
時計は七時を回っている。しばらくすると、屋敷の住人たちもぞろぞろと起き始めた。使用人たちも忙しなく動いている音が聞こえる。
スキアーは冷たい水が入った桶に手を突っ込み、「あ、」と息を吐いた。
せっかくエヴァルトが貼ってくれたガーゼが、濡れてしまったのだ。傷も冷水に浸ったことで滲んだのか、桶の中の水が赤く濁っている。
スキアーが慌てて桶の中の水を捨てようと立ち上がったその時、後ろから声が降った。
「あら、また掃き掃除? 鈍間でお馬鹿なスキアー」
「…、ベル」
ベルは吊り気味の目をさらに吊り上げて、スキアーを見る。その口元は、上に引き上がっていた。
「何? ろくに仕事も出来ない異国民の下男が、私の名前を呼ばないでよ」
ベルはそう言って、スキアーがせっかく集めた枯れ葉の山を足で乱暴に崩していく。スキアーは、それを黙って見ていた。
「あーあ、汚れちゃった。こんな汚い仕事してるなんて、貴方がいつも小汚ないのはそう言うことなのね?」
「…」
「なによ、その目……って、何? それ」
ベルが、何かを見つけた。スキアーは目線の先に気が付き、咄嗟に手を後ろに隠した。しかし、目敏いベルが気が付かないわけがない。ベルは嫌な笑みを浮かべて、スキアーに近付いた。
「…貸しなさい、何なのよそれ」
乱暴に腕を掴まれる。ベルは女性にしては、やたらと力が強かった。
「! 貴方これ、旦那様たちが使うガーゼじゃなくって?」
スキアーの白すぎる手に貼られたガーゼを見て、ベルが驚いたように言った。そして次の瞬間にはスキアーを睨み付けると、その細い体を突き飛ばした。
「…どういうことなのかしら!?」
スキアーは突き飛ばされた勢いで、桶を倒してしまった。冷たい水がスキアーの体にかかり、服が濡れる。冷たさに震えるよりも、目の前のベルの形相の方が今のスキアーにとっては問題だった。
「違う、これは、…」
説明しようとして、言葉を噤む。何も出てこない。盗んだなんて言えるはずもないし、もらったなんて到底言えない。
おかしいのだ。一介の下男が、屋敷の者が使うガーゼを貼っていることなんて。
「…言い訳なんていらないわよねぇ? 薄汚くて醜い貴方がやることなんて、みんな分かってるわよ。さあ、貴方のことを報告しなくちゃ。盗みを働いた馬鹿な下男がいるってね!」
「!」
スキアーは目を見開いた。ベルはそんなスキアーに嫌な笑みを浮かべると、ふとスキアーの全身を見回した。
「それに貴方、なんだか昨日より汚れが―――」
そうベルが言った時だった。
「…何、やっている」
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