夏と蝉とスリープレス
蝉がわんわんと泣き叫んで、熱気のこもった空気を揺らす昼下がり。
講義を終えて、リュックを背負いながら講義室を出ると、眠たげな羽田に出くわした。彼は半ば夢心地のままなのか、目を細めながら俺を見ると、間抜けな声を出した。
「あれ、もう終わっちゃったの」
寝坊か、とは聞かなかった。聞かなくてもいいくらいに眠たげな雰囲気を譲り出す羽田に、後ろから来た蒲生が溜め息をつく。
「おいおい、またかよ羽田。お前そろそろまじで単位やばいんじゃねーの」
「うーん、俺の記憶が正しければ、あと一回オッケーなんだけど」
羽田は曖昧な返事をして、緩い笑みを溢す。全く危機感のない表情だ。
「いつも何やってんの?」
バイトだって、言うほど忙しくはないだろうに。
俺がそう言うと、羽田は「そんなことない」と抗議した。
「夏講始まったんだよ、バイトのさ。夜遅くまで生徒の面倒見てたらこうなっちゃうんだって!」
ふぅん、と鼻息にも近い返事をして、クーラーの冷気が届かない廊下を三人で歩く。
蒲生はまだ羽田を説教していて、それを一歩下がったところで聞きながら、俺は窓の外を見つめた。
あれから、一ヶ月が経った。
夏を完全に迎え、毎日蒸し暑い日々が続く以外に、大した変化はない。
根は真面目な蒲生が迫り来る定期試験を気にして勉強し始めたことは前から分かっていたし、羽田は相変わらず遅刻が多い。そして俺も、学校とバイトの繰り返しを続けては、夏の暑さを実感していた。
でも、ひとつだけ、ずっと心の奥底に残っているわだかまりがある。
「あ、そういや、廣田。おとといのサークルの飲み、行かなかったんだな」
羽田がこちらを振り向いて言った。
俺はそれを聞いて、生返事を返した。意識が外にあったわけじゃない。何でもないふうに取り繕わないと、心にしまいこんだわだかまりの破片がどこからか出てきそうな気がしたからだ。
「最近また廣田が来ねーからさ。西出さんも気にしてたし、何より入尾がうざいのなんの」
「…ああ、ごめん。俺、バイト忙しくて」
「なんだよ、俺のこと言えねーじゃんかぁ」
「お前と違って講義はちゃんと出てんだからな」
スパーンと羽田の背中を引っ叩いて、羽田が呻く。
その背中を見ながら、約一ヶ月前のことを滲むように思い出していた。
『―――ごめんな』
分からなかった。
自分は一体どうしたいのか、西出さんは一体どうしたいのか。
あの時、自分は一体どう言えば正解だったのだろう。
あの日、半ば追い出される形で西出さんのアパートを出たあと、気付けば自分のアパートの部屋にいた。
脳裏にこびり付いて離れない西出さんの寂しそうな笑顔と、苦痛を語る瞳。
いつも通りベッドに潜り込んでも、気分はいっこうに晴れなかった。
(どうしてこんなに、落ち込んでるんだろ…)
鬱陶しいほど暑い夏のせいなのか。
それとも、自分の不甲斐なさに気が付いたからなのか。
滲むような記憶はどれも忘れられるはずもなく、あの日見せた西出さんの強い瞳や悲しそうな顔を思い出しては、体中が軋むように唸った。よく眠れていない証拠だ。
「おい、ひろっつぁん?」
蒲生に呼び止められて、はっとする。振り返ると、不思議そうな顔をする蒲生と羽田がいて、俺は「悪い、聞いてなかった」と正直に謝った。
「眠そうだなー、ひろっつぁん。ちゃんと寝てんの?」
「超寝てる」
「見え透いた嘘をいけしゃあしゃあと言ったぞコイツ」
嘘ではない。寝付けてはいないが、何をするにもやる気が起きず、バイトがない日はベッドに寝転がっては悶々としていた。その合計時間を合わせれば、かなり寝ている。
だけど蒲生は白々しい目で俺を見て、「寝てたらそんな疲れた顔しません」と抗議する。
「いや、寝過ぎて眠いって言うアレ」
「ああ、なるほどな。…え、そんなに?」
蒲生が首を傾げる。そんな蒲生を無視して、構内を出た。
夏の暑さは本格的だ。木々にへばりつく蝉が忙しなく鳴いて騒ぎ、生暖かい空気がじわじわと汗を呼び起こす。
「あっ、ヤッベー。俺サークルのミーティングあんだわ」
蒲生が時計を見て騒ぎ出す。そうして俺たちに答える隙も与えず、大急ぎで消えてしまった。
「ガモーのとこ、文系ばっかだからテスト前でも容赦ないよなぁ」
羽田がポツリと呟く。蒲生はああ見えてかなりコミュニケーション能力値が高いから、やっていけているんだろう。
「廣田、このあとバイト?」
「いや、別に。テスト前だし入れてない」
「まじ!?」
すると、羽田の顔がたちまちキラキラと輝き出した。
「俺に勉強教えてくれませんか廣田先生〜!」
「…そう言うのはそこそこ勉強してるガモーにしたら?」
「やだよアイツぜってー教えてくんねーもん。だるいとかなんとか言って。しかもサークル忙しそうだし」
蒲生が羽田を追い払っている図が容易に浮かんで、頷く。納得の絵面だ。
俺は溜め息をついて、羽田を見た。恐らく俺の顔には、面倒くさいと大きく書かれているに違いない。
「…いいけど」
「うわっさすが廣田〜。どこでやる?」
「俺ん家の方が近いから俺ん家でいいよ」
「廣田が優しすぎて泣きそうだわ俺」
勝手に泣いておけばいいと思う。白々しい目線を羽田に送るが、羽田は気にしていないようだった。
盛大に喜ぶ羽田を連れてアパートに帰り、速攻で冷房を入れる。部屋の中はサウナ状態で、不快な暑さに顔をしかめた。
「まあ、そのうち涼しくなるだろ。…お茶でいい?」
「あーさんきゅ」
羽田はそう言うや否や、教科書を広げ始める。お茶を持ってテーブルに座ると、羽田はすでに準備を始めていた。
「何やんの?」
「生体学。ギリギリまで休んでるから抜けが激しいんだよな」
「お前バカかよ…」
溜め息をつくと、羽田は「ごめんって」と少しも悪気があるようには思えない態度で言う。
「先に言うけど、ガモーほどは教えられないからな」
羽田の示す回に沿って、できる限りの知識を羽田に植え込む。講義中もちっとも集中なんて出来なかったが、おおよその概念は聞けていたはずだ。
しばらくして、羽田が休憩とばかりにテーブルに突っ伏した。部屋の中はひんやりとしてきて、ちょうど眠気がやって来たのだろう。
眠そうな羽田を見て、俺も栄養ドリンクを飲み干した。
「そう言えばさ」
羽田が顔を上げた。その顔は、いつものおどけた風ではなく、妙に真面目だったから、少し身構える。
「廣田、西出さんとなんかあった?」
「…え」
あまりに直球だったから、空の瓶を落としそうになった。羽田は腕の隙間から顔を覗かせて、俺を見る。
「―――…」
息が詰まりそうだ。まるで見透かされているよう。
その瞳は、どこか確信ついたもので、普段のおちゃらけた羽田はどこにもいないように思えた。