オトナなコドモ
月曜日の午後は、なぜだか少し気だるいものだった。
3限からの講義で、ようやく有機化学の先生が帰るとどっと疲れて机に伏せる。
たった一時間二十分。
それだけなのに、俺の身体は、思うように動かなかった。
それには、訳があるからなんだけども。
「おうおう、今日もおねむですかひろっつぁん」
蒲生がリュックを背負ってこちらにやって来る。
蒲生と言えば、この間の例のコンパについて散々怒られた。あの後の空気は最悪だったとか、俺が悪者扱いされただとか。俺にとってはそんなことどうでもいいんだけど、一応悪いと思ったので謝った。いやほんとう蒲生がたかがコンパでバカみたいなことするから悪いんだけど、蒲生はよほど怒られたのか、憔悴しきっていたから責めることも出来なかった。
それで、機嫌の直った蒲生に問いただされたのは岸部さんのこと。
あのあと何かあったのか、LINEとかTwitterのフォローしてるのか、とか。
LINEは交換したけどそのあとは普通に帰った、と言うと、蒲生があからさまに落胆していたのだけは覚えている。
「廣田最近寝すぎじゃねぇ? そんなんじゃ単位落とすぞー」
「…お前に言われたくない…」
羽田がどこから降って湧いて来たのか、視界の端からひょっこり現れて目の前をいっぱいに埋める。
「えーっナニソレ! あ、てかさぁ、知ってる知ってる? 俺ぇ、病み上がり♪」
「…あー、そうだね、羽田風邪引いてたんだっけ、忘れてた忘れてた」
「ちょっとガモー酷くね? 俺キミらが楽しくコンパ行ってる間に熱でうなされていたのよ? てか今日復活なんだけどっ!」
羽田はそう言えばご丁寧にマスクを着用している。元元顔が小さくて細長いからか、なんだかマスクをすると顔の露出している面積が少なくて笑えてくる。
「お前、マスク似合ってない」
「ちょっっ、廣田まで!」
羽田が効果音つきであからさまにショックを受けた顔をする。それを横目にカバンに荷物を詰めていると、羽田が喜々として言った。
「てかさ、廣田コンパどうだったん? 彼女できた?」
羽田の言葉に、蒲生が吹き出す。押し黙る俺に代わって、蒲生が笑いを堪えながら言った。
「王様ゲームでさ、いい雰囲気の女の子とキスしそうになって、その女の子連れて帰っちゃったんだよコイツ」
「えーっ!? マジで!? あの廣田が!?」
てか王様ゲームって古くない? と羽田は言いながらも、マジでを繰り返しながら俺を見つめる。
「いや…だから、ガモーが変なことするから、可哀想になって連れて行ったんだって。そのあとすぐ別れたし、何もなかった」
そう言えば、羽田は信じられないとばかりに蒲生を見やった。
「やべーよガモー…。コイツ大馬鹿助だ」
「だろ? ほんと大概にしろって感じだろ?」
蒲生が呆れたように言う。
大概にしろと言うのは、おそらく恋愛に興味がない、のことだろう。
「もったいないなー。じゃあそのまま直帰しちゃったんだ?」
そう羽田に問われて、俺は言葉に詰まった。
あの日は、ほんとうにいろんなことがありすぎた。
だからこそ、今だって頭がうまく回らない。
岸部さんから降りかかる視線の量も、...西出さんの、あのカミングアウトも。
全部が全部、俺を悩ませていた。
「───あのあとは…西出さんと飲んでた」
そう俺が言うと、羽田も蒲生もなんの疑いも持たずに、へぇーと呟いた。
「偶然会ったの?」
そう聞いたのは、羽田だった。
そう言えば、羽田は前に、変なことを言っていた。
西出さんが、そっちの人なんじゃないのか。
羽田が言っていたことは、何ひとつ間違っていなかった。
「…そう。偶然。」
いつも近くにいたはずの俺が分からなくて、羽田はいとも簡単に見抜いていた。
「…あのさ、羽田」
お前の言っていた通り、西出さんは────
(……、)
はっとした。
俺は、一体なにをしたかったのだろう。
「? 廣田?」
羽田が訝しげに首を傾げる。
「…、いや、なんでもない…」
なにやってるんだろう、俺は。
西出さんが実はそういう人で、だから、なに。
西出さんをネタにして、笑いたかったわけじゃない。
こういうことをペラペラいろんな人に話すのは、最低だ。
(…俺、最低…)
自分に嫌気が差す。
いつまで経っても大人には成りきれない。
こんな些細なことですら、迷ってしまうなんて。
『お前が思う大人って、どんなもの?』
あの日、西出さんの部屋で聞かれたこと。
西出さんは胡座をかいたままの姿勢で、視線を俺に向けて言った。
西出さんや他の人を見ると、自分も早く追いつきたいだとか、大人になりたいだとか、そういう思いをどうしても抱いてしまう。
そう告げた俺に、西出さんはカミングアウトをした。放心する俺に向けた言葉は優しいもので、いつも通りの西出さんを感じた。
『自分をしっかり持ってて…土台っていうか、芯があるというか……とにかく、流されない感じです』
ふわりふわり、ちゃんと喋っているつもりなのに、言葉はふわふわとどこかへ流れて行ってしまう。
『西出さんは…自分を持っていて、芯もあって……憧れで』
西出さんだとか、バイト先の古谷さんだとか。副店長もそうだ。
俺がそう言うと、西出さんは黙ったまま、コップの縁を撫でた。
『…確かに、俺はお前からすれば大人かもしれない』
ぽつり、ぽつり。
西出さんの伏せた瞳は、何も映し出さなかった。
『でもな、俺に芯があったら、今頃俺はこんなに変に道を踏み外していない。こんなに慕ってくれてる後輩を、そういう対象で見たりしない』
『…っ、』
西出さんの強い瞳と視線がかち合って、壁際に後ずさる。その仕草は、小さな拒絶だった。
『…分かってるよ。俺だって、お前との関係が壊したくなかったから、ずっとこんなこと言わなかったんだ』
そう言って優しく笑う西出さんは、なんの感情も掴めなくて。
ああ、そうだ、俺はこの人を傷付けてしまったんだ、と思い始めた時には、もう何もかもが遅いような気がした。
『オトナって奴は、エグいモンだぞ。コドモだから許せることも、オトナになりゃ一発アウト。俺はその過程で、軌道修正を怠った。だから俺は、お前の言うカッコイイ大人でもなんでもない』
西出さんはそう言って、立ち上がった。
『────ほら、帰るぞ』
俺のカバンと、上着。
それらを頭から放り投げて、俺を見下げる。
『キモけりゃキモいっつっていい。バラしたかったらバラしてもいいよ。まあなんせ、俺が勝手にバラしちゃったからな。だから廣田は何も悪くないってことは、覚えとけよー』
そう言っていつものようにくしゃっと笑う彼は、いつもの西出さんで。
何も言えなくて立ち尽くしていると、西出さんが俺の頭に手を置いて、言った。
『───ごめんな』
それが何の謝罪なのか、どうして西出さんが謝るのか、俺には分からない。
やっぱり俺は恋愛云々より人間関係から見直した方が良かったのかもしれない、と思いながら帰路についた時には、すでに涙が一筋、頬を伝っていた。
あんな悲しそうな西出さんを、俺は知らなかった。
知るはずもない彼の一面を、俺の子どもらしい無邪気さのせいで、暴いてしまった。
身体がミシミシと音を立てる。
心もミシミシと泣き喚く。
でもそれは、俺の身体でも心でもない。
他でもなく、大人に成りきれなかった西出さんの悲鳴だった。