理想と現実と、
西出さんは、俺の憧れの存在だった。
温和で明るくて、冗談も軽く言えて、だけど頭が良くて。後輩思いで、自分の考えを持った大人の男の人なんだと、ずっとそう思っていた。
だけど、あの日西出さんが怒りをあらわにした姿をたまたま見て。
自分は西出さんの何を知っていたのだろうと愕然とした。
目を覚ましたら、知らない部屋にいた。
とりあえず起き上がり、辺りを見渡すとテーブルには缶ビールや焼酎のビンが転がっていて、俺の向かい側のテーブルの下では、西出さんが転がるように眠りこけている。そこで、ようやくここが西出さんの部屋だと思い出した。
確か昨日、西出さんに誘われて部屋で飲んでいたんだったか。
まだ少しだけ入っている缶ビールを一気に飲んで、散らかっている焼酎のビンや缶ビールを集める。
二日酔いはしていない。どうやら酔っ払う前に先に眠気が襲って寝てしまったのだろう。
床で眠りこける西出さんは、すっかり熟睡しきって起きる気配もない。きっちりとした性格の西出さんが眠る姿は貴重だ。
音を立てないように缶ビールたちを袋に詰め、テーブルを台所にあったウエットティッシュで拭く。ついでに西出さんに近くにあったタオルケットを掛けると、西出さんが小さく身じろぎした。
こんな西出さんを見るのは初めてだった。
堀の深い顔立ちはいつもは大人っぽくて格好いいのに、こうして寝ていると本当に子供みたいに見えてしまう。
(こんな人が…)
怒るところなんて、見たこともなかったのに。
俺の知らない西出さんがいて、西出さんが知らない俺がいる。
そんなのは当たり前なのに、どうしてこんなに気にしてしまうのか。
そもそもお互いをよく知り合う機会なんてサークルでしかない上に、ただの先輩後輩の仲だけの関係。
俺だけを気にかけてくれるだなんて、自惚れていたから?
人気者で頭も良くて格好いい先輩が、こんなどうしようもない暗い奴を気にかけてくれたから?
こんなことで変に気にする自分は、一体何なのだろう。
そういう一面もあるんだということくらい、理解だって出来るだろうに。別に理解出来ないほど器も狭くはないはずだし、人間はいつだってこういうものだってことくらい、この19年間で分かっていたはずなのに。
その時、スマホが音を立てて振動した。静かな朝に響きわたる電子音に慌ててスマホを見ると、そこには岸部さんの文字があった。
『おはよう!昨日はありがとう。突然なんだけど、昨日のお礼がしたいんです。どこか行きたいとか、ありますか?』
トークに表示された、突然の誘い。律儀な女の子なんだと感心する暇もなく、慌てて西出さんを見ると、やっぱりというか、西出さんは覚醒していた。
「…彼女?」
「……」
起きたて開口一番の言葉にフリーズしていると、西出さんは青白い顔のまま、いつものようにあっけらかんと笑った。
「…違いますよ」
「なんだ、違うのかー。昨日ゲットしたのかと思った」
「ないですよ。帰っちゃいましたし…って、すいません、うるさかったですよね」
「ああ、いいよいいよ」
西出さんはよっこらしょと言いながら立ち上がると、ふらふらとした足取りで台所へ向かった。カチャカチャとコップか何かを取り出している音に混じって、西出さんが言う。
「でもさー、廣田って結構モテない?」
「…あんま、モテないです」
「そうか? 結構同じサークルでもお前割と人気じゃん。知らないのか?」
西出さんがコップに入ったお茶を飲みながらリビングに戻ってくる。そして俺の前にもうひとつお茶を、あのくしゃくしゃの笑顔で手渡した。
「…知らなかった、です」
そもそも、付き合おうとかすらも考えたことがなかったですから。
そんな言葉を飲み込んで、お茶を一口飲む。
西出さんはそんな俺を見て、屈託なく笑った。
「もったいねぇなぁ。ほら、顔とか洗って来い。寝起だろ?」
そう言われて、洗面所に行くと顔を洗った。口を少し濯いで少しだけ寝癖のついた頭を直すと、再びリビングに戻る。西出さんは入れ違いに洗面所に行って短時間でリビングに戻ると、また床に座った。
「あれ? 女の子からなんだろ? 返信しないのか?」
「…西出さんって妙に鋭いですよね…」
「まあ、お前の表情見てたら女の子だなーってすぐ分かる」
その言葉に、俺は西出さんをじっと見つめた。
「表情…」
「嫌そーな顔。そんでめんどくさそーな顔な。大体廣田はサークルでもそんな感じだろ」
「……」
全く意識していなかった。
やっぱり、西出さんは人をよく見ている。自分でも顔に出しているなんて気が付かなかったのに、西出さんはちゃんと見ていたんだ。
「その子、付き合うのか? LINEしてるってことは、かなり気に入ったんだろ」
そう西出さんに言われて、スマホの画面を見つめた。LINEのトーク画面には、岸部さんの言葉が綴らている。でも俺は、それに対し打ち返す気力も湧かなかった。
「…いや、俺には無理ですよ」
トーク画面から、画面が真っ暗になる。スリープにしてスマホを床に放り投げる動作は、少し乱暴にも見えたかもしれない。
「俺、恋愛とか、そういうの興味ないんです」
ちょっと前に羽田や蒲生に漏らした言葉。
どんなにかわいい女の子だって、どうしてかその気にはなれなかった。だからと言って女に興味がないわけじゃないけど、いざ自分が当事者になると、やっぱり無理なのかもしれないと思う自分がいる。
結局、それがただの臆病なのか恋愛下手なのかは分からない。
「…変、ですよね。俺くらいの年齢の奴が、恋愛興味ないって…。友達にも、言われました」
西出さんがなんとも言えないと言うような顔をしている。確かに、こんなこと急に言われたら返しようもないと思う。
だけど西出さんは、その顔を突然微笑みに変えると、「そっかそっかぁ!」と大きな声で言った。
「そーいう奴もいるよ。俺の兄貴もそうだし、そんな気にすることねぇんじゃねぇのか?」
「…え、」
驚いてしまったのは、本当だった。
あまりにもあっけらかんとし過ぎていて、西出さんは言葉の意味を正しく理解しているのか、分からなくなってしまっていた。
「…引かないんですか? この歳で、恋愛とか恋人とか、いらないって」
「そのくらいで引かないって。そういう奴だって世の中わんさかいるし、健全でいいじゃん。ストイックってことだろ? 変な話、こんな世の中じゃ廣田みたいな奴がいないと保てないんだよ」
西出さんは、大人だった。
俺が思っていた以上に大人だったのかもしれない。
ちゃんと自分と言う土台があって、その上に思考や概念が組み立てられて出来ている。
価値観なんて人それぞれだけど、それでも、西出さんの言葉と態度はキラキラと輝いて俺を包み込んでくれるような気もした。
「…やっぱり、西出さんはすごいです」
「ええ? なにが?」
西出さんが面白そうに笑って言う。それと同時にトレードマークの赤い髪をかき上げる仕草も、学生にはない大人びた色気があった。
「西出さんは、やっぱり大人なんだな、って」
「…うーん、まあ確かに、俺ハタチ過ぎてるしね、とっくに」
「俺、友達にこのこと話したら、ドン引きされましたもん。どうやったらそんな風になるの、って…」
蒲生の言葉を思い出す。俺だってそうだけど、アイツはついこの間までまだ高校生で。恋愛をしたい盛りで、俺とは真逆。
「……正直、西出さんが羨ましいし、尊敬しちゃうんです。こんなにくよくよ悩んで早く大人になりたいとか、変な恋愛観なんて捨てたいとか…俺がもう少し大人になれば、こんなことで悩まなくて済むのかも、って思うんです、ときどき」
思った以上に、昨日の酒が残っていたのかもしれない。止まらない愚痴に、西出さんも目を見開いて俺を見ていた。でも、西出さんはすぐに俺から目を離すと、グラスのコップに入っていたお茶を一気に飲み干した。そして少し溜め息をついてから、言った。
「―――廣田は、大人に早くなりたい?」
それが何を意味しているのかは、俺にはさっぱり分からなかった。
西出さんを見ると、西出さんは横を向いて胡座をかいていて、横顔から見える瞳は遠くを見つめていた。
「…残念だけど」
西出さんが、ゆっくりと告げた。
「俺は、お前に尊敬されるような大人な男じゃない」
告げられた言葉は、寂しさと拒絶が含まれているような気がして、思考が止まった。
「…え、」
なにかまずいことを言ってしまったのだろうか。
西出さんの意気消沈したかのような新しい一面の雰囲気に、身体が固まる。
「将来像とかさ、俺が語れるようなもんじゃないってわけ。大人になるとやっちゃいけない、許せないこととかも増えて、取り返しのつかないことも増えてくんだよ」
こちらを振り返ってにっこり笑う西出さんに、あの夜のことを思い出す。
知らない男の人に怒鳴って、怒りを露にしていた西出さん。あの日、俺は知らない西出さんを知った。西出さんが知らない人に思えた。
でも、だから?
西出さんだって、ただ優しくて笑ってるだけじゃない。
「あの夜さぁ、たまたま廣田と会っちゃったでしょ」
西出さんは俺とは目線を合わさず、ただ独り言のように呟く。
「実はさ、あの時、かなり焦ったんだよね。こんなこと、廣田にだけは知られたくなくてさ」
「……」
こんなこと、の部分で溜め息をつく西出さんは、くるりとこちらを向いて俺を見た。
「廣田が将来像とか恋愛観で悩んでて、それで俺を頼りにしてるんだったら、教えてあげる。お前は俺に懐いているから、言わないほうがいいとは思ってたんだけどさ」
そう言って立ち上がる西出さんに不気味さを覚えて、わずかに後ずさる。西出さんは俺の目の前まで来て腰を下ろすと、突然強く俺の胸を押した。支えきれずに床に仰向けで倒れ込んだ俺を、覆うように上に乗っかってきた西出さんに恐怖を覚えて腕で押さえつけるけど、西出さんはびくともしなかった。
「…西出、さん、」
西出さんのあのいつも明るい表情が、固くそれでいて険しい顔つきに変わっていた。野獣のような目つきに恐怖が芽生えて、涙が少し目もとに溢れた。
「廣田」
西出さんが低い声で囁く。
こんな西出さんは知らない。
あの時の西出さんみたいで、怖かった。
西出さんの長い指が頬に伸びて、嫌がる俺を無理やり真正面に固定する。西出さんの足が下半身に乗っかってるせいで身動きは腕しか通用しない。
どうしてこうなったんだっけ。
西出さんは、一体なにがしたいのか。
「…廣田は、分かってない」
西出さんが、ぽつりと言った。
「俺が優しい先輩なんて、本当に、廣田はお人好しだよ」
西出さんはそう言うと、身体を離した。「ごめんな、痛かったろ」と言って俺を起こして、ふう、と溜め息をついた。
「廣田もさ、気を付けろよ。俺みたいな奴の部屋にホイホイ着いていって、まして酒とかさ。襲われたらどうするわけ?」
「…は、」
意味が分からない、と言う風に西出さんを見ると、西出さんは呆れたように深く溜め息をついた。
「あ〜、だからぁ…、俺は女にキョーミないってわけ」
「……」
少しだけ、時間が欲しかった。
理解するのにはまだ早すぎる気もする。つまりそれは、西出さんが、…。
「…ホモ、ですか」
「…うん、まあ、そうだよね」
簡単に言うとね、と笑いながら言う西出さんに、さっきまでの剣幕はどこにもなかった。