揺めきは陰に落ちて





 結局その日は、そのまま何事もなく西出さんと別れてアパートに帰りついた。まだあまり見慣れない部屋の間取りを眺めながら、ベッドサイドに腰を掛けて先刻の出来事を思い返す。


 あれは一体、何だったんだろうか。


 あれ、というのは西出さんと名前も顔も分からない男性の喧嘩のようなやり取りのことではない。西出さんが俺に向けた、あの何とも言えない表情のことだ。

あんな表情は初めてだった。いつも余裕と自信に満ち溢れている西出さんが、頼りなく、そして今にも消えてしまいそうな顔をしたことに驚いてさえいる。あれは本当に西出さんだったのか、それすらも疑ってしまうほどに。



 ふと、スマホがチカチカと光る。サイレントモードにしていたことを思い出し、腕を伸ばして手に取ると、LINEの通知が来ていることに気が付いた。


「…西出さん、」


差出人は、西出さんだった。
西出さんは「今日は本当にごめん。今度なんか奢る」とだけ打っていて、西出さんの小まめな性格が如実に表れているように思えた。


「…」


 聞きたいことは、山ほどあるけれど。

 あの人とは一体なんだったのか、そんなのは、俺が知るよしもないことであって、西出さん個人の問題。俺が踏み入れることも出来ないのは、それは自然なことであって、俺自身はなんの関係もない。


そうで、あるのに。



少しだけ、あの時西出さんがした表情のわけを知りたいと思った俺は、性質が悪いのだろうか。














「辛気臭い顔してんなぁ、ひろっつぁん」



 土日が明けて、有機化学という地獄の講義が終わったあと、蒲生が俺の席までやって来て開口一番にそう言い放った。…若干失礼だと思ったのは、俺だけではないはず。


「バカだなぁガモー。廣田が明るい顔してたら廣田じゃないじゃん、それ」


「…お前は黙ってろよ羽田」


一番失礼な発言をした羽田を遠くへ押しやり、蒲生を見る。蒲生は相変わらずのもっさりした黒髪と黒渕眼鏡のスタイルで、面倒そうな表情のまま前の机に腰を預けた。


「なんかあったん?」


「…いや、」


なにもない、とは言いきれなかったけれど、だからと言って西出さんのあの出来事をぺらぺら話すのもなんとなく忍びない。
言葉に詰まる俺に首を傾げた蒲生は、「おっ、そうだ」と手を叩いて俺の肩をパシパシと叩いた。


「そんな辛気臭い面したひろっつぁんに朗報ー」


「え、なになにガモーくん!」


「あ、羽田には関係ないから大丈夫。帰っていいよ」


「ガモーくん!?」


いつの間にか羽田が復活していて、蒲生の右腕にだらんと寄りかかっていた。それを無視して、蒲生の眼鏡の奥の瞳を見た。


「なに?」


「今度さぁ、学科内の女子とコンパしようって誘いが来たんだよね。俺とあと一人必要でさ。良かったらひろっつぁん行かない?」


「あー…」


ちらりとスマホのカレンダーを確認する。


「いつ?」


「出来れば木曜日とかどうかって。バイト入ってる?」


「…あ、入ってない」


「お! じゃあ決まりだな。可愛い子多いみたいだから、楽しみにしとけよ」


蒲生に右肩を強めに叩かれる。


「えー、廣田とガモーいいなあー。俺も行きたかったー」


「羽田はまた今度な」


「え、まじ!」


羽田が喜びの声を上げて立ち上がる。蒲生は腕を組んで俺を見下ろすと、不敵な笑みを浮かべて言った。


「そろそろひろっつぁんも彼女作ったらどうかと思って」


「出来そうで出来ないもんな、廣田は」


「…」


羽田のいらない一言は無視して、俺の目線は何故か自信満々の蒲生へと向けられる。

…どうやら断れないらしい。そう蒲生の瞳が強く訴えていた。


「…分かったよ、」


スマホのカレンダーに予定を打ち込む俺に、蒲生が手を叩く。


「よっしゃー、ひろっつぁんゲットぉー。これで俺の身は安泰だ」


「やっぱり。なんか賭けてたのかよ」


大方そんなところだろうとは思ってた。蒲生は両手を顔の前で合わせるポーズをしながら、申し訳ない、と呟く。


「サークルの友達が雰囲気のイイ奴一人連れてこいって言ってさぁ! 何人かに頼んだんだけど、みんな埋まってて。あああ良かった。ひろっつぁん、こういうのダメかと思ってたから」


「羽田は? アイツ、超人当たりいいじゃん」


「アイツはチャラすぎて場の雰囲気壊しかねないだろ」


「…なるほど」


妙に納得。


「ちょっとお宅らー。ちゃっかり聞こえてますよー」


羽田が隣で野次をいれるが、蒲生は見事に無視を決め込んでいた。


俺は机に頬杖をついて、二人に気付かれないように溜め息をつく。


『そろそろひろっつぁんも彼女作ったらどうかって思って』


蒲生の言葉を思い出して、なんとなく気分転換にはなるのかもしれないと思う反面、やっぱり面倒だと思う自分がいる。


(…中途半端だな、…)


そう思う自分すら、面倒に思えた。








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