暗がりのブルー・デイ






 人間は誰しも、深く交わることは出来ない。
 犬のように単純で、うさぎのように脆く、猿のように適度に知能があれば、こんな難しい世の中にはならなかったのかもしれない。
だけど、人間は難しい。複雑な想いを抱えて、他人の顔色を伺って、言葉選びに必死になる毎日。
そんな世界に、僕らは生きている。
そんな世界で、僕らは息をする。


「来週からテスト期間だけど───今まで勉強してきた人なら出来ると思うから。くれぐれも単位を落とさないように、注意してください」


じゃあ、これで。


そう言って、物理の先生は消えていく。
いつ受けても気だるい物理の講義を終えて、生徒たちは帰っていく。

遠くにあるホワイトボードを眺めながら、少し寝起きの頭を軽く振る。コンタクトが乾いていた。


「廣田」


 不意に呼ばれて、乾いたコンタクトを気にしながら振り向く。どうやら寝すぎたようだ。


「今日さ……って、うわ、なにその目。充血してる」


「気にすんな。…で、なに」


羽田はそうそう、と呟いてから、俺を指差した。


「今日の夜さ、サークルの飲みじゃん。廣田も行くでしょ」


「…あ」


思い出したように間抜けな声を出す。たった今、頭が起動し始めた。


「…やべ、忘れてた」


「あ、まじ? なら言ってよかった。西出さんが廣田をどーしても連れてこいって言うからさ、」


「え、西出さんが?」


鞄に荷物を詰めながら、羽田に問う。


「テスト前だけど」


「そんなのみんな一緒じゃん」


「…羽田は有機と物理が出来るっていうんだな」


「ごめんなさい一緒に再試受けましょう」


羽田が頭を下げる。先輩の言うことは聞かなきゃだよな、そりゃ。


「…分かったよ。行くけど、今度羽田がなんか奢れよ」


「おーまかせろ! さんきゅ、廣田」


ふう、と息をついて、席を立つ。もう講義室には半分も人がいない。昼過ぎだし、何か急ぐようなこともないというのに。

確か今日の8時から飲みだったな、とぼんやり思いながら、キャンパス内のエントランスを抜け中庭へ出る。眩しい日差しは6月中旬のもので、真夏日でもないのにジリジリと焼けつく太陽が恨めしい。

キャンパス内には、仲良く歩く男子の集団、女子、またはカップルなどが様々にいた。服装がやけに派手な女もいて、横目で見るも溜め息しかでない。


大学というのは面倒なもので、別段好きでもない学部を選ぶと何もかもがつまらなく感じる。でも俺の場合は、なんとなく、の方向性が強いわけだけど。
今までのらりくらり、好きなように生きていたらこうなってしまったわけで、何かに必死になって生きたことはこれっぽっちもない。そんな人生。そんな、つまらない日常。


「今日の飲み…だる」


賑やかな外気に漏れた言葉は、陽気な熱気とともに消えていく。


少しだけ、また太陽が恨めしく思えた。














「一週間しか経ってませんが! 久々の飲みだと思って張り切って行きまっしょーーーい!!」



 駅の近くの店で開かれたサークルの飲み。別に飲みサーというわけでもないらしいが、最近は活動よりも飲みに走っている傾向にある。無理矢理飲ませたりとかはさすがにないらしいけど、ノリが軽いのはちょっと難点だ。


「おっ、ひろっつぁんじゃん! お久しぶり!」


サークルのタメで違う学部の入尾が端に座る俺の隣に座ってきた。


「ひろっつぁんがサークルの飲み来んの久々じゃね? なんかあったん?」


「西出さんにどーしてもって」


「あ、西出さんに? へー、だからか」


酒が飲めないらしい入尾がカシスオレンジを飲みながら頷く。


「西出さんは?」


「来てるよ。今注文行ってんのかな。なんだろー、大事なことでもあんのかねぇ」


入尾の言葉に、さあ、と言いかけて、視界に西出さんが入った。いつ見てもものすごいカラーの髪の毛。真っ赤に染め上げられた髪と堀の深い顔は、かなり目立っていた。
じっと見すぎていたようで、そのうち西出さんと目が合った。すると西出さんは思い出したような顔をして、焦ってこちらへと来る。


「廣田!」


笑顔で俺を挟み込むように入尾とは反対側に座る西出さん。


「お、入尾も今日来たんだな!」


「西出さーん。俺は毎回来てますよー」


「あれ? そうだっけ」


「ちょっと西出さん。俺、結構目立つタイプなんすけど!」


入尾が自身の金髪をつまみながら言う。確かに、入尾も集団から見つけやすい。

西出さんはそうかそうか、と言いながら、俺に見向いた。


「廣田、強制的に来いって言って悪いな」


「いや、確かに俺最近全く来てなかったですし、呼んでもらってありがとうございます」


そう言うと、西出さんはくしゃっと笑った。この笑い方はこの人の特徴で、目元の皺が壮大に寄る大胆な笑い方。でも、爽やかな感じがして、この笑い方がかなり好ましかったりする。


「廣田がなかなか来ないからさ、もう辞めるのかと思ってた」


「いや、それはないですよ。俺好きでこのサークル入ったんですもん」


「…まあ、ただただ鬼ごっこについて研究するサークルだけどな」


「……そんなとこが、なんですよ」


西出さんは力強く俺の肩を叩くと、ほら、もっと飲め!と酒をすすめてきた。酒の強要はいけないんじゃなかったですっけ。








 終盤に差し掛かり、その後は店を変えて一部で飲んだ。女子は危ないからと西出さんが強制的に帰して、男子だけでの飲みを行った。もちろん俺も西出さんに無理矢理連れられ、肩を組まれて飲む始末。相変わらず入尾はカシスオレンジとジンジャーエールを交互に飲みながら、それでも酔ったかのように騒ぎ立てていた。そう言えば存在感がなかったけど、きちんと俺の近くにいた羽田も、べろんべろんに酔って先輩におんぶされている。恥ずかしい奴。


「えー、深夜4時を回っとりますがーここで解散したいと思いまーす。皆さんお疲れ様でしたー」


 時計はすでに深夜4時を過ぎていた。あまり飲み過ぎないように注意してたからか、結構視界はクリアだし足元もふらつきはしない。


「あれ? 廣田、あんま酔ってないな」


西出さんが少しだけ赤い顔で俺に言った。


「あー、あんま飲み過ぎたら俺、取り返しのつかないことになるんで」


「取り返し? 弱いのか?」


「いや、酔ったら何するか分かんない、ってことです」


そう言った時、西出さんの目が丸くなった。あ、驚いてる。


「何するか分からない? お前が?」


「俺は覚えてないんで知らないんすけど、前、学科仲間と飲んだ時に、俺ヤバかったらしくて」


「どんなふうに? お前が酔うとか想像できない」


「さあ……とにかくヤバかった、としか」


4月の半ばに学科仲間と飲みに行ったことを思い出す。確かあの時、調子に乗りすぎて飲みまくった結果、べろんべろんに酔って羽田ん家に泊めてもらったのは良い思い出。


「へえ、酔って暴れるとか? 想像できねーけど」


西出さんが笑いながら言う。
暴れたんだとすれば、かなり最悪な酔い方だ。


「西出さんは、酒強いんですね」


「いや、俺も弱い。酔ったらすぐ寝ちまう」


「あ、ぽいです。……西出さん、駅の方向ですか?」


「おう。確か廣田もだっけ?」


「俺のアパート、大学のすぐ近くなんで」


「おー、じゃあ一緒帰るか」



 電灯で照らされる深夜の街。時たま暴走族的なバイクが通り過ぎて行って、この辺は治安悪いな、と西出さんがぼやいた。


「廣田ってさぁ、薬学部だったっけ?」


 西出さんが、ふと呟く。街灯に照らされる西出さんの靴は、ポール・スミスの新作物。


「そうですよ、」


「あ、じゃあ勉強とか辛い感じか」


「医学部の西出さんほどじゃないですよ」


笑いながら俺が言うと、西出さんも笑った。


「他の奴らみたいに、なかなか遊ぶ時間が限られてるからな」


あっからかんと笑う西出さんは、優しく尋ねた。


「じゃあ、薬剤師になりたいわけだ」


その言葉を聞いて、ふと、暗がりに目を泳がせた。暗くて見えるわけでもないのに、明らかに動揺した自分がおかしくて、少し笑った。


「いや、そういうわけじゃ、なかったんです」


静かな道路を1台の車が通る。深夜の静けさが、破壊された気分だった。チカチカとうるさく光る信号機。24時間営業なのか、電灯のついた居酒屋。一気にどれもが煩わしく感じた。


「医学部に行こうと思ってて、途中で諦めて入ったようなもんなんで、……」


これを言うときは、いつも苦しい。言い訳のようにも聞こえるし、見栄っ張りのようにも聞こえる。西出さんに最悪な人間だなんて思われたら、どうしよう。


「へえ、まじ? じゃあ医学部だったら俺と同じ学部だったのに。もったいねぇなー」


意外にも、返ってきた返事はあっけらかんとしていた。驚いて西出さんを見るけど、少し暗くて表情は少ししか分からなかった。


「ま、薬剤師になるのは簡単じゃないとか言うからさ、とりあえず目指しとけよ。どうしても嫌だったりとかしたら、もう一度再チャレンジとかあるわけだし」


簡単に言うようだけど、と西出さんが笑いながら言う。俺はその言葉に、一抹の安心感を得たような気がした。本当に、単純、なのだけれど。


「あれ? もしかして廣田、感動した?」


「西出さんは頭良くてカッコイイのにお調子者だからもったいないですよね」


「それ同じ学科の女子にも言われたわ!」


西出さんがしくじった〜と言いながら頭を抱える。この人、本当は酔っているのかもしれない。


「…あ、じゃあ、俺はこの辺で。」


「おう、大学近くだったな。ちゃんと寝ろよ、もうすぐテストだし」


西出さんも、と言おうとしたけど、西出さんはさすがというか、そういうところはきっちりしているから何も言えない。

西出さんは俺に向かって手を上げたあと、闇に溶け込んだ。



眼前にはアパート。
早く帰って、風呂入って、寝るとしよう。そうしたら、ちゃんと有機の勉強しなきゃだな。


そう思いながら、からっと乾いたアスファルトに足を踏み出した。












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