君のなりたい僕について
僕がもし、だれかが期待する僕ではなかったとき。
僕がもし、だれかの憧れになれなかったとき。
僕はきっと、誰からも自分を自分として認められないんじゃないかと、疑心暗鬼になる。
―――あの日のように。両親から、家族から向けられた目をもう一度向けられるのではないかと、心底不安になるのだ。
「西出!」
ふと、呼ばれて顔を上げた。
午後の気だるい講義。誰もが必死にホワイトボードに書かれてある医療用語に食い付いて、メモをとる。講義が終わってまどろむ視界の中、俺は寝惚けた脳で声の主の識別をしていた。
「えーと、その声は、工藤だな」
「人のことを声で判断してんじゃねーよ。それより西出、お前ずっと寝てたけど、講義聞いてたの?」
俺の前に座る工藤は、猫毛気質の髪をぴょこぴょこと跳ねさせて胡乱な目付きを寄越す。
「んー…まあ、あの範囲は知ってるし。いいかなって」
「うわあ、出たよ、天才発言。もういいよ西出、それ以上いらない。俺の前でわざわざ言わなくていいんだよ、悲しくなるだろ」
工藤が深い溜め息とともに唸り声に似た抗議をする。
…そう言えば工藤は、いつも単位ギリギリだったなとどこかに閉まっていた情報をひっそり取り出した。
「工藤こそ、疲れてるのに寝ないんだな」
「俺はお前と違って、メモをとらないと単位試験が難しいからな。…あ、坂浦からLINE」
工藤が嫌そうな顔をしながらスマホを見た途端、ぱっと華やかな顔つきに変わった。
スマホに表示されているのは、工藤が仲良くしている後輩だ。
「坂浦、どうしたんだ?」
「今日、講義棟の自習室で一緒に勉強しませんかって。嫌だなぁ、帰って録っておいたアニメ観たいんだけど」
「…いや、そこは行ってやれよ」
工藤は超がつく引きこもりだ。それを、坂浦という後輩が気を利かせて外に引っ張り出している。
出来た後輩だと思うし、そういう仲は悪くないと思う。
…普通ならば。
「うわっ、坂浦のやつ、俺が断ると分かってて迎えに来やがる!」
「やさしー」
「優しくねぇよ、強制自主勉じゃねーか!」
ギャーギャーと工藤が喚きながら急に立ち上がって荷物を詰め始める。急いでいるからか、物を落としながらわたわたする工藤は非常に見苦しかった。
そのうち、先輩の講義室だと言うのに坂浦が工藤を連れに迎えに来た。
坂浦を見た工藤は絶望的な顔をして、俺に助けを求める目を送る。
「…西出先輩、いつも工藤さんがすいません。」
坂浦が工藤の襟を掴んで平謝りしてきた。
工藤はその隣でギャーギャーと喚いていた。坂浦はものともせず、ちらりと工藤を見つめると、ほんの一瞬だけ、その仏頂面に笑みを浮かべた。
「………ああ、うん。別に、どうってことないから」
実際、自分が何を答えたって、どうでも良かった。
ただ、坂浦の工藤に向ける表情だとか、なぜ工藤にそこまで出来るのだとか、そういうのを考えているうちに、いつの間にか坂浦と工藤はいなくなっていた。
(―――坂浦、工藤のこと、どうやっても気になるんだな)
大好きだとか、愛しているだとか、そんなちんけなことは言いたくない。
そういう言葉ほど深みのない浅はかなものはないし、むず痒くなるだけだ。
工藤は確かに、一般的には可愛いと見れる容姿だ。
猫毛で、猫目で、背も高くはない。細い体だがそこそこに筋肉はあって、声も高くはない。だけれど、世話を焼きたくなるなにかがある。
(世話を焼きたくなる、ねえ…)
俺の頭に浮かぶのは、いつだってつまらなさそうな顔の、あの子だけ。
少し暗めに染められたブラウンの髪。表情に乏しいけれど、妙に整った顔立ち。地味なのに目に止まる、ミステリアスな雰囲気。
いつの間にか、彼のことを目で追っていた。好きなのかどうかさえ、もう分からない。
初めはただのおせっかいだった。
新歓で馴染めていなさそうな彼を見つけて、話しかけて輪に入れた。大人しそうなのに意外と話せばちゃんと目を見て話してくれて、言いたいことはちゃんと言ってくれる。
そんな彼に、俺は酷く憧れていたのかもしれない。
『俺、西出さんみたいになりたいんです』
俺はちゃんと、君のなりたい俺になれていた?
…真実を知って、嫌いになっただろうか。
俺はちゃんとした大人じゃないって。
廣田に憧れられるような、大した人間なんかじゃないって。
お前をそんな目で見ていた俺なんて、気持ち悪くて仕方ないだろう。
(…俺も、そう思う)
講義終わりの人まばらの教室で、落書きだらけの白い机に顔を伏せて窓の外を眺めた。
もう、真夏だ。
廣田にカミングアウトをしたのはまだ少し涼しさの残る六月のことだった。
雨上がりの路上、部屋に散らばるビール缶、眠る廣田が寝返りを打って微かに聞こえる衣服の擦れた音。
俺は少しも眠れなかった。廣田がすぐそこにいると分かって、どうしようにもなかった。
廣田が寝返りを打つ度に心が震えて、柄にもなくまるで不整脈を患ったかのように動悸が止まらない。
夏が近付くにおいと雨上がりの夜のにおいが混じって、呼吸が浅くなる。微かに酒のにおいもした。そこに廣田の匂いまであるような気がしてならなくて、時たまふと我に返っては邪な自分に呆れて。
…だから、廣田にあんなことを言われた時、乾いた笑いが止まらなかった。
酷いことを言ったとも思う。けれど、止まらなかった。知ってほしいと思ってしまった。
…ごめんな、廣田。
俺は、“いい先輩”じゃないんだ。
教室から出て、家に帰ろうと外に出ると、真夏の太陽がジリジリと剥き出しの肌を焼いた。
すっかり季節は夏で、ジメジメとした気候は鳴りを潜め、今度は焼け尽くすようなギラギラとした照りつく太陽が顔を出す。
「あっちー」
パタパタとシャツの袖を掴んで扇げば少しは楽になるかと思ったが、何せ空気までもが暑いので生ぬるい風しかやって来ない。
暑すぎて外にはいれないのか、普段騒がしい大学敷地内のベンチにも人はいない。それを横目で見ながら、正門から大学を出た。
大学から自宅マンションまでは徒歩十分。恐らく、そこそこの近さだとは思う。親の金で借りた賃貸だが、大学生にしては良いマンションだし、「アパートじゃないだけ良く思え」とよく友人たちからも言われた。金欠病の工藤には一度マンションを見られた時、本気で恨めしそうな顔で「死ね!」とストレートに言われたことがあったのは記憶に新しい。
自宅マンション前までたどり着いた時、そこに見知った顔がいることに気が付いた。
でもその顔を見て、俺は決して良い顔をしない。見知った顔がどれだけ見知っていても、それが会って嬉しいだとか、テンションが上がるような人物ではないからだ。
「…あっ! 耀二。やっと来た!」
明るく染められた髪と、いかにも女受けしそうな顔立ち。今日も奇抜な格好で現れたその青年は、俺を見るなり不機嫌そうな顔で言った。
「待ちくたびれたんだから。LINEしても返事来ねーし、電話も出ねえし。マンションまで来たのに、なかなか人来なくて入れなかったし、さいあく!」
「…尚矢。もう来るなって言っただろ」
冷たくそう言うが、尚矢は悪びれもないように肩をすくめた。
「ハイハイ。相変わらず、大学と違って冷たい男だな」
いいから入れてよ、と尚矢の気だるげな声が焦がすような熱い空気に溶ける。
煩わしい気持ちを抑えて、ため息をつくとマンションのオートロックを開けた。
「誰かに見られたらどうするんだよ」
そう言って、ふとあの夜のことを思い出す。
日が落ちて、暗くなったばかりの時間。尚矢と今後のことで少し口論になって、静かな路地で怒りを滲ませていた時―――あの子を、見た。
彼は少し驚いた様子で、あまり表情の変わらないその顔をあからさまに困惑させていた。その様子が彼にどれだけ衝撃を与えたのかよく解る挙動で、慌てて追いかけてしまった。
追いかけるつもりなんてなかったのに、でもどうしても、引き留めて「違うんだ」と弁明したかった。
彼と俺は、どんな関係でもないのに。ただの、先輩と後輩。たったそれだけなのに。
「…なにそれ。男二人がマンション前にいたところで、どーってことないでしょ。気にしすぎ」
尚矢の乾いた声がエントランスに降る。
「それとも、何? 例の“あの子”に一度見られたから、怖いの? 自分がゲイで、男とセックスしてるような人間だって」
「尚矢」
振り返り、尚矢を睨み付ける。
尚矢は意地悪そうな表情を浮かべて、「本当のことだろ」と嘲笑った。
「言ってやればよかっただろ。回りくどいことばっかして、勘違いさせといて。本当は優しくもないくせに、優しいぶっていい先輩面してさ。…そういうの、面倒くせぇよ。ノンケ相手だと、特に」
言葉の棘が、柔らかい心臓をズブズブと突き刺していく。
尚矢に反論したかった。けれど、どれもが図星で、何も言い返せずにエレベーターを降りた。
マンションの自室に入ると、尚矢からキスを仕掛けてきた。
そこに熱情なんてない。ただ、空いた感情を埋めるための、虚しいほどのキス。
俺たちは愛する人に愛を言えなくて、心にぽっかりと空いた穴を埋めたいがために、仲間同士で傷口を舐め合う。
それがどんなに虚しくて、馬鹿らしくて、どうしようもなく情けないことか、そんなことは自分でも分かっていた。
あの子はどんな顔で啼くのだろう。
この手で抱き締めたら、あの白い肌はきっと柔らかくて、日だまりのような優しい匂いがするのだろう。
いつも無表情なあの顔が、自分の手で蕩けて崩れる姿が見たい。
…こんな汚い感情を持っている自分が、どこまでも浅はかで―――どんなに醜くて、最低な人間なのか。
それを、廣田は知らない。
「…廣田…っ」
尚矢との情事で、思わず廣田の名を口にしてしまった。
ベッドで俺に組み敷かれた尚矢はその言葉に目を見開くと、深くため息をつく。
「…あー、まじ、萎えた」
尚矢は俺の体を押し返し、雑な動作で髪をかき上げた。
その顔は酷く面倒くさそうで、どこか陰鬱だった。
「人を抱いてる最中に、別の男の名前出すかよ、普通」
何も言えなくて、尚矢の方は見なかった。
謝りもしない俺に呆れたのか、尚矢はベッドサイドに置いていたペットボトルの水を飲んで、胡乱な目付きで俺を見る。
「馬鹿じゃねえの、耀二」
尚矢の言葉は、普通に聴いたら棘だらけの、毒のある物言いだったかもしれない。
けれどその言葉の最後に付けられた俺の名には、どこか呆れと同情が混じっていたことに気が付いて、俺は何も言わなかった。
「ノンケ好きになるって、どんなことか分かってんの? 報われない恋なんてやめろよ。そうやっていつまでも隠して踏み留まって、どうにかなるとでも思ってんの」
「…もう、隠してない」
あの日、あの時。
我慢できなくて、廣田に打ち明けた。
俺を大人だとか、尊敬しているだとか、そういう風に思われるくらいなら、今ここで「そうじゃない」と否定して、全部を見てもらいたいという欲が出てしまったからだった。
それは、醜い欲だった。
自分本位で、どうしようもないくらいの汚い願望。
これで少しでも君に振り向いてもらいたいなんてそんな馬鹿な話、あるわけないのに。
「…でも、好きだとは言えなかった。あんな顔されたら、言えるわけない」
驚いて、困惑して、でもその驚きを隠そうとして、それで失敗して。
そんな複雑な表情をした廣田を見るのは、初めてだった。
あの子が表情を崩して素を見せたきっかけが俺のカミングアウトなんて、自分でも引くほど信じられない。
それで告白なんてしたら、廣田はきっと、その顔に“拒絶”を滲ませるのだろう。
―――そんなの、耐えられない。
「…へえ。で、相手の反応が怖くて逃げてんだ?」
尚矢は全てお見通しらしい。
女好きのする顔を歪めて、けらけらと笑う。
「案外、耀二って乙女だよね。頼んでもないのに自分からカミングアウトしといて、廣田くん?の反応が怖くて一方的に逃げるとか、どこぞの女より女々しくて笑っちゃう」
「…うるせえ、黙れ」
「あん時もそうだったよね。ほら、あの子に見られた時の。」
蒸し返すように尚矢が口にしたのは、あの日の夜。
廣田に尚矢との口論を見られた時のこと。
「もう関係やめるとか言い始めて、何だコイツと思ったらあの子見た瞬間に走り出して。正直、馬鹿だと思ったよ。関係切ったところで何も変わらないのに。耀二がゲイで、あの子がノンケなことなんてさ。無理なんだよ、耀二。あきらめな」
尚矢の言葉が、夕暮れの薄暗い部屋に浮かんで溶けていく。
暗く沈む尚矢の瞳が、俺の体を通り越して、違うものを見ているようだった。
「逃げるくらい苦しいなら、ノンケに恋なんてしなきゃ良かったんだよ。どうせ突き放されて終わりなんだから。好きな人が遠くに行ってしまうくらいなら、気持ちなんて伝えずにそばにいる方がまだマシなんだよ」
尚矢はきっと、好きな人がいたのだろう。
いや、今もその人のことが好きなのかもしれない。
淡い恋心がガラガラと崩れ落ちて、絶望にうちひしがれるような暗い経験を、もしかしたら尚矢はすでに体験したのかもしれない。
そのほの暗い焦げ茶色の瞳は、俺ではなく他の誰でもない、たった一人の人間を映し出しているようだった。