フィール&フィール
「―――廣田さ、この頃元気なかっただろ。講義中だって何か思い詰めた顔してるし、珍しく上の空だし。明日は大雪にでもなるのかと思ってた」
羽田が顔を上げて、お茶を飲む。溜め息をついて腕を後ろに倒し、体勢を崩すと、固まる俺に笑いかけた。
「でさ、よく考えたら、廣田が西出さんと会ったって言ってた日から、なかなかサークル来ないし、西出さんも西出さんであんまり廣田廣田って言わなくなったんだよね。さすがに俺でも、ちょっとは気になるって」
「……」
羽田の向かいに座った。羽田はそんな俺を見て、眉を下げる。
「そんなにヤバイことしちゃったん? 廣田がそこまで落ち込むとか、珍し〜…」
カラカラと笑って、羽田がシャーペンを指で回す。
羽田の心遣いが、今は息苦しい。冷房ですっかり冷えきった室内には重い空気が漂っていて、風でペラペラと揺れ動く教科書の紙だけが音を立てた。
何を、言うべきか。
きっと西出さんのことは、言うべきじゃない。
これ以上、俺の勝手で西出さんを困らせたり悲しませるわけにはいかない。
でも、今、自分の中に蠢くわだかまりは?
張り詰めていた体を、ゆっくりと呼吸して解す。そして、テーブルに腕を乗せると、自然と頭を掻いた。
「…傷付けたかも、しれない」
ぽつりと音がしそうな小さな声で、俺は告げた。
「俺、全然西出さんのこと知らなかった。それで、俺の勝手を押し付けて…傷付けた」
ぐるぐると頭を駆け巡る、西出さんの悲しそうな顔、声。
あの時、自分を押し倒した西出さんの瞳は確かに野獣のように怖かったけれど、その奥にあったのは、言いようもない切なさのような気がして。
どうしてこんなことにも気付けなかったんだろうと、心臓の奥から熱が吐き出される感覚がした。
(…自分のことばっかりだ。誰だって、悩みくらい持ってるのに…)
羽田はしばらく天井を見て、考えるような顔をしていた。そして、羽田は「そうだなぁ」と呟くと、俺を見つめた。
「廣田も西出さんも、優しいよな」
にっこりと笑う羽田は、どこか少し大人びていて。すっかり高校生から抜け出したとか、そんな雰囲気でもないのに、彼の顔つきはやたらとすっきりしていた。
「…優しい…?」
「廣田は西出さんを傷付けたんじゃないかってスゲェ心配してるし、西出さんは西出さんで、廣田のことをスゲェ心配してる」
羽田はなんでもないように伸びをすると、シャーペンを手にとって浪人回しを始める。
「廣田がサークル来てない間さ? 俺、まあまあ時間あるときにサークル行ってたんだけど。西出さん、俺見るたびに目に見えて落ち込むわけ。でも廣田のことは聞かないんだよな。寂しいような感じでさ、空元気って言うか、笑顔なんだけど、ちょっと暗いっつーの?」
「―――…」
羽田は、いつも周囲をよく見ている。明るくて元気がいいお調子者だけれど、弟や妹がいるせいかもしれない。人のふとした表情を読み取って、考察する。俺にも、蒲生でも出来ないことを、羽田はいつだってやっている。もし、羽田になれたら、自分は西出さんの全てを理解できただろうか。西出さんの想いに答えられただろうか。そんなこと、今の自分には何も分からない。
「…西出さんが何をしたかとか、廣田が西出さんに具体的に何をしたかとかはよく知らねーけどさ。俺が思うに、なんとなく、お互いがお互いを傷付けたって思ってるから、壁が出来たんだと思う」
羽田の言葉が、ゆっくりと曇りがかった心に染みる。
(お互いが…傷付けた…?)
西出さんが、どうしてそんなことを思うんだろう。
悪いのは、すべて俺なのに。
俺が西出さんの全てを知ったような口で、西出さんを勝手に理想像として押し付けたから。
「…羽田」
「ん?」
「…大人になるって、どんなことだと思う?」
いつの日か、西出さんが俺に言った言葉。
俺はあの日、西出さんの本当のことを知った。
でもそれ以上に、西出さんは俺の拒絶を知った。
俺はいつまでもそれが見えない。分からずに、人を傷付けて、勝手に悩んで。女みたいにくよくよ悩んで、本当に馬鹿みたいな人間だと思う。
羽田は俺を見て、「まあね」と呟いた。
「年齢的にも経験的にも俺らって大人には程遠いけどさ。それで廣田の質問も、なんかちょっと概念的に一致してるのかは分かんねぇけど」
「…うん」
「衝突した時に、素直になれること」
(…―――)
すっと、背筋が伸びる。そして、じわじわともやが晴れていくような、そんな気がした。
羽田はビシッと俺を指差すと、一際真面目な顔をする。
「…なんて。今の廣田に向けて、名誉塾講師の羽田先生が言っておく」
羽田はふざけた決めポーズをしたあと、何が楽しかったのか一人で笑う。
「名誉…ってお前、ただのいち塾講師が意気がるなよ」
「わあ、いつにも増してドライアンドブリザードな廣田〜。顔怖ッッ!」
アハハ、と羽田が楽しそうに笑った。そのあっけらかんとした態度に、心に留まっていたわだかまりが、少しずつ溶けていくような気がした。
「やっぱさあ、子どもの頃も喧嘩したら素直になれって言われてたじゃん。原点に帰ってここは仲良く仲直りしたほうがいいって!」
「ガキかよ…。あー…なんかもう、肩の力抜けたわ…。お前のせいだからな。ノンストップで有機やんぞ」
「ちょっと廣田くん!?」
羽田の泣きそうな声が響く。
冷たい風に吹かれて、教科書がパラパラと音を立てる。だけど、部屋の空気は、なんだか少しあたたかく感じた。