特有の潮の香が鼻腔をくすぐる。聞こえてくるのは波の音とマストにぶつかる風の音。
それにドキドキとうるさくなる自分の心音だ。
 誰もいない甲板で女はひとり遠くを見つめていた。
 辺りは変わりようのない漆黒の世界。空を見上げれば一面に星が広がっている。しばらく見ていれば方向などたちまちわからなくなってしまうだろう。


「お嬢ちゃん、夜の海は思いのほか冷えるぞ。中に入んなさい」


老父はおっとりとした口調で彼女にそう投げかけた。どうやら彼女が部屋に入るまで待っているらしく長い髭を摩りながら入口の飛びを抑えたまま立ち止まっている。


「さあ、急ぎなさい。グランドラインの気候はコロコロと変わるからね。もうじき雨が降るだろう」

「はい。ありがとうございます」


女が歩き出したとたん、待ち侘びていたかのように空からは大粒の雨が降り出した。雲一つない星空だったはずが今では厚い雲に覆われている。

 逃げ込むように部屋に駆け込むと別の船員がふかふかのタオルを手渡した。


「ほれみろ。船長の言ったとおりだろ」


礼を述べる前に男はそう言った。


「さすがですね。ちっともそんな気配はなかったのに」


女は困ったように笑った。


「さあ、今温かいミルクティーをいれさせよう。そこにかけなさい」


パタリとドアを閉めながら船長は男にお湯を沸かすように命じる。そして自分も彼女の正面に腰を降ろした。


「すみません。無理なお願いをしたうえにこんなに気を使っていただいて‥‥」
「なに、気にしなさんな。困った若い子を助けない歳よりはいないさ」


ガハハ、と豪快に笑いながら船長は彼女を見遣った。


「そういやまだ名前を聞いていなかったな。教えてくれるかな」
「勿論です」


ふわりと満開の花のような笑顔を向け彼女は名乗る。


「ナマエと申します、船長」





―――――――――





 ドタドタと足音を立ててクマは走る。
さぞかし慌てているのだろう、クマはは迷うことなくこの潜水艦の主の元がいるだろう部屋に向かっていた。


「おい!そんなに慌ててどうしたんだ、ベポ」


まだ早い時刻だというのにクマ‥ベポを呼び止めた男たちは酒を嗜んでいるようでほんのりと頬が赤い。


「ベポー、お前も飲めよ!旨いぞー!上等だぞ、こりゃ」


琥珀色の酒が並々と注がれたグラスをベポに向け別の男がそういう。
楽しそうに雑談をしながら酒を飲む船員とは打って変わりベポは青い顔をして叫ぶように言った。


「そんなことしてる場合じゃないよ!大変なんだ‥!!」


いつになく慌てるベポに船員たちはなんだなんだと彼を中心に集まりだす。そしてベポは声を絞り出すように小声でぽつりと事の大事を言った。


「‥ナマエが、いなくなったんだ」


その一言に皆青ざめる。
持っていたグラスを滑らせ床に酒を零す者までいる始末だ。
それ程名が上がった女はベポにとって‥いや、この船総ての乗組員にとって大事な人なのだ。


「ベポ!」
「ハィィイ!」


あからさまな怒りを含んだ声で自身の名を呼ばれたベポは情けない声で返事を返す。


「どういうことだ!」
「わからないよ!ちょっと部屋を離れたら‥いなくなっていたんだ」

「探したのか?」
「うん。船内は全部探した。けど‥」

「キャプテンにばれたら‥」


キャプテン、とそう口にした男がみるみるうちに青ざめる。

 ナマエはキャプテンの女だ。
それも甚く熱をあげている、女。その彼女が逃げだしたと知ったらと思うと船員たちの考えはどうやら全員一致らしく皆同じ顔をした。


「こ、殺される!!」


誰が言ったのかその一言で全員が肩を震わせた。


「とりあえず‥どうする?」
「幸いまだ船は停泊中だ。外に探しにいこう」
「誰がキャプテンを足止めしとけ!絶対に気付かれるな!」


 船員は二手に分かれることにし、一組は外にナマエを探しに、もう一組は船内で船長を足止めすることになった。勿論全員が探しに行くほうを希望したためじゃんけんで公平に。


「頼んだぜ、お前たち」


負けた船内居残り組は泣きたい気持ちでいっぱいだ。

そうしてベポを初めとする他の船員は外に向かった。


「手分けしよう。右と左と正面に別れていこう!」


ベポの一言でさらに散り散りに彼らは大事なナマエを探しに街と向かった。




 船内は異常なまでの静けさを帯びていた。
きっと自室で寝ているのだろう、主を起こさないように隅に固まり全員が息を潜めている。唾を飲み込むのすら躊躇われる。
 船長が起きて来るまでに見つかることを祈り彼らはただ縮こまった。




 どれ程探し回ったのか、足は既に棒のようだ。
 ベポは荒くなった息を整えようとゆっくりと歩きながら潜水艦が停めてある港へと戻っていた。

 考えるのは恐ろしいオーラを放つ船長の姿ばかりで出てくるため息はどうしようもない。
どうにも出来ないことにうなだれて頭を垂れれば探し求めていた彼女の匂いが鼻腔を掠めた。
突然感じたそれに慌てて頭をあげ右左とキョロキョロと視線を巡らせれば少し先に漸く見つけた。


「ナマエ!!」


相手にわかるように大きく手を振りベポはもう一度名前を呼ぶ。それは確実に彼女にベポの存在を教えた。

 ベポはてっきり自分を見ればこっちに来てくれるものとばかり思っていた。だが彼女はベポを視界に捕らえるなり踵を返し真逆へ足早にいってしまう。そこで漸くベポは思い出したのだ。彼女は今自分たちから゛逃げでいる゛ことを。


「ま、待ってよ!ナマエ!」


慌ててベポは彼女の後を追う。

そして向かったのは幾つもの船が停まる停泊場だった。
ナマエが老人と話しているのを目撃してベポは彼女へと歩み寄る。老人は行ってしまったが彼女は動こうとはせずにベポを見据えていた。

 自分から逃げない彼女にベポは漸く諦めたのだと思った。
そして彼女の前で立ち止まると手を指し伸ばした。


「さあ帰ろう、ナマエ。キャプテンが起きたら心配するよ?」


にこりと笑い彼女が手を掴むのを待つ。


「ねえベポ‥」


数分して彼女はベポを呼んだ。その声は心なしか低い。


「どうしたの?どこか痛い?」


ベポは大変だと言ってナマエの肩を掴みあちらこちらに目を配る。
しかし傷は疎か打撲の後もなければ虫刺されもない。
不審に思い彼女の顔を覗き込めばナマエは泣きそうな顔をしていた。


「違うの。怪我なんて‥ないの。でも‥」


一息吸うと彼女はベポに言った。


「ローに伝えて」


先程までの表情とは一辺、彼女の顔は凛々しかった。



 ベポはただ呆然とナマエの後ろ姿を見つめていた。
 そして彼女は船に乗り込んでいく。小さな船だ。先程の老人の船なのだろう、ちらりと姿が見えた。


「キャプテンに‥伝えなきゃ‥」


一気に身体が重くなったとばかりにベポの足どりは重い。





―――――――――





 温かなミルクティーが目の前に差し出されナマエはカップを手にした。
 そっと口に運び冷ますように息を吹きかけていると船長は彼女に尋ねるように話し掛けた。


「よかったのかい?あのクマは知り合いなんだろう?」


変わらない優しい口調にナマエは困ったように微笑むと首を縦に振る。
すると船長は彼女の頭に手をやり撫でるように動かした。


「よかったんです、これで‥。あの人に‥わたしは必要ないですから‥」


伏し目がちにナマエは言った。浮かない表情で、後悔しているのかどうかもわからない。

 彼女のいうあの人を船長は勿論しらない。夕方の港での彼女に詰め寄られた様子を思い浮かべるとそうか、とだけ口にし深くは追求しなかった。
 あの時切羽詰まった様子で゛わたしも乗せて下さい。次の島まででいいから゛とそう懇願され゛お前さんがいいのなら゛と許可をしたあの時の彼女の姿が船長には重大に思えた。ほうって置けば何をしでかすかわからない、最悪海に身を投げるかもしれない。そう思ったから許した。


「船長に断られていれば、わたし‥」


そこで言葉を濁した彼女に船長は自分の思いが間違いではないと確信した。


「好きなだけ、いるといい。ナマエの気が済むまで、風に身を任せてみるのもいいとは思うぞ」


柔らかな笑みを向け船長は席を立つ。


「さあ、もう遅い。ゆっくりとお休み」
「ありがとうございます、船長」


礼を述べナマエは同じように席を立った。
 宛がわれた部屋に向かいベッドに腰を降ろす。そして呟くように小さな声で゛あの人゛の名を呼んだ。


「‥‥ロー」





―――――――――





「ベポ」


 男はベポの名を呼ぶと持て余していた長い足を組んだ。
 目深に被った帽子の下からちらりと覗く瞳は恐ろしい程に冷たい。

 ベポの目の前にいるのはこの潜水艦゛ハートの海賊団゛の船長であるトラファルガー・ローだ。
賭けられた賞金は二億ベリー。呼ばれる二つ名は゛死の外科医゛。

 長いこと連れ添うベポですらトラファルガーが怖いと思うことがある。それは決まって今はいない彼女が関わるとき。
恐ろしい程に冷気を纏うトラファルガーにベポは逃げるように視線をそらした。


「もう一度言ってみろ」


トラファルガーはただ無表情でベポにそういう。
逆らえば自分に害が及ぶとそう判断したのだろう、ベポは視線を反らしたまま口早にナマエの伝言を伝えた。


「出て行きます。ローのその浮気癖にはウンザリです。さよなら」


 沈黙が流れた。

 ベポは何も言わない。それは慕っていた彼女を呆れさせたトラファルガーへの些細な対抗であったから。それに彼ならナマエを迎えに行くと思っているからでもある。


「‥それでお前はおれにどうしろと言うんだ、ベポ」


予想外のトラファルガーの台詞にベポは勢いよく彼を見遣った。その瞳には疑問と微かな怒りが含まれている。


「キャプテン!どうして‥!」
「お前はおれが他の女を抱いてると思ってるのか?」


喉を鳴らして笑うトラファルガーをベポは怪訝な眼差しで見た。

 正直に言えば毎度島に着く度にナマエ以外の女の匂いを纏って帰ってくるトラファルガーが浮気をしていると思っている。
しかし彼は台詞は違うといっていた。


「‥‥違うの?」


思わずそう聞き返せばトラファルガーは笑った。


「違うな。おれはあいつ以外の女なんて興味はねぇ。‥だが、あいつが嫉妬する姿は堪らなくおれを飽きさせねぇんだよ」


トラファルガーはそう言い放つと徐に席を立った。

「キャプテンどこにいくの?」


ベポがそう問えば彼は不敵に笑った。





―――――――――





「いいのかい?置いて行っても」


 船長は何度目かの問いをナマエにした。
その度に彼女はきわめて明るい笑顔で大丈夫です、と答えるのだ。


「そうか。それじゃあ私たちはいこうか」
「二日間、とっても楽しかったです。ありがとうございました」


丁寧にお辞儀をした彼女に船長は変わらない笑みを向けた。
そして船員に船を出そうと促す。


「またいつか会える日を楽しみにしているよ」
「わたしも、いつかまたお会いしたいです」


船長は軽く手を上げると船の中へと戻って行った。そして間もなく船は陸を離れていく。


「お世話になりました、船長」


 彼女の言葉は彼に届く事はない。
ナマエは小さくなっていく船をずっと見送っていた。

 まだ早い時刻。少しだけ覗いた太陽が海を白く輝かせる。
眩しい光りに目をひそめナマエは空を仰ぎ見た。どこまでも青い空だ。雲ひとつない空がそこに広がっている。


「思ったよりも元気そうだな」



「楽しかったか?小さな冒険は」
クツクツと喉を鳴らし彼はナマエの耳に唇をよせ言う。
「その涙はどんな意味を持つんだ?」


その声色は随分と優しいものだった。
耳朶を食み輪郭をなぞるように舌を這わせトラファルガーは彼女の名前を呼んだ。


「や、止めてっ」


彼の腕から退けようと身をよじるも男の力に敵うはずもない。ナマエは必死になって次の言葉を紡いだ。


「ローなんて、嫌いっ」


そういって後悔した。
溢れてくる涙が止まらない。それは先程までのとは違い後悔の涙だった。
口にして想うのは彼へのあふれるばかりの思い。
嫉妬に溺れる醜い自分への気嫌感。


「ローはいつだって自分勝手‥」


 トラファルガーがどんな表情をしているのかナマエには見えない。しかし怒ってはいないのがその温もりから伝わる。

嗚咽をあげながら泣く彼女を正面に向けトラファルガーは視線を合わせるように彼女の顎を指で掬った。


「おれを見ろ」


言われるままナマエは視線を彼に向けた。
深い色の目に吸い込まれるような錯覚に落ちいつの間にか泣き止んでいる。


「そんなにおれを想うならしっかり繋いでおけばいい。お前からもう逃げ出せないように」


口の端をあげトラファルガーは言った。
 そして塞がれる唇。

 幾度も角度を変えて深く貪るような荒い口づけにナマエの息が上がる。


「見えついた嘘は初めからつくな」


射るような視線がナマエを捕らえる。
そしてまた唇を塞いだ。

甘く蕩けるような優しいキスだった。








―――――――――

゛ごめんなさい。゛さまに捧げます。



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