滅多に吸わない葉巻の火を消してから医療室の前に立つ。扉を開けた途端、壁や天井のどこまでも白い色が眩しかった。消毒液の臭いが鼻についた。新兵の頃は嗅ぎ慣れていたこの臭いは、ツンとくるが人の腐臭よりはマシだなとサカズキは思った。医療室に来ることなど何十年ぶりのことだろうか。まぁ、今回も自分が怪我をしたから、というわけではないのだが。


「赤犬大将!お疲れ様です!!」


医師は緊張した面持ちだった。厳格で有名なサカズキを目の前にしてはそれも当然かもしれない。


「名前はおるか」


サカズキは単刀直入に目的の女の名を告げた。数時間前、新世界の海賊の討伐から彼女が大怪我を負って帰還したと聞かされた。仕事を終えたのはつい先程。できる限りの早足で、サカズキはこちらに向かってきたのだ。医師の一人に居場所を聞き出し、サカズキは少し離れた場所で寝ている深緑色の髪の女の元へと足を向けた。


「サカズキ…!」


己の上官である男の接近に、名前は驚いて上半身を起こした。身体が軋み、傷が痛んで顔が歪む。焦りからか、普段なら職務中に絶対呼ぶことのない、彼の名前を呼んでしまった。慌ててすぐに"赤犬大将!"と言い直す。


「今日の仕事は終わった。別に構わんわい」
「…ごめんなさい」


実は意外と知られていない二人の関係。恋人であることなど別に公表するものでもないとお互いの協議の結論と、仕事を優先させたいという見解の一致により原則として職務中は恋慕の情を忘れようと二人の間でのそれが取り決めだった。


「…また酷いやられようじゃな」


まったく、海軍本部の中将ともあろう女がなんという有様か。若くして将校の実力を持つ彼女は、サカズキのお墨付きだった。だからこそ、こんなただの海賊を捕らえるという任務で名前が大怪我を負って帰ってくるなんて誰も思わなかった。事実、クザンやセンゴクですら意外そうな顔をしていた。


「どこを痛めた」
「右足が完全に折れています。肩を切られていて、脇腹に刺し傷が。それと背中に打撲傷に、あとは裂傷が数ヶ所」


こんなに彼女が傷をつくって帰ってきたのは新兵時代以来じゃないだろうか。20年近い付き合いの中でもあまり記憶にない名前のこんな姿はサカズキの表情を苦々しいものにした。


「何故こんなに重傷を負った」
「……っ」
「お前さんはそこらの海賊にこんなケガを負わされるような女ではないじゃろうが」


サカズキが怒っている。厳しく真っすぐな彼が怒りを露わにしているこの状況は酷く恐ろしいもののハズなのに、言葉の端っこに自分への信頼を感じ取った名前は嬉しさが込み上げてきた。幼少より海軍に身を置いていて、何度となくサカズキの雷を喰らっていては最早慣れの部分もあるのかもしれない。


「聞いちょるんか」
「あ……、はい。部下を、庇ったものだから…」


倒れかけた部下がトドメをさされそうになったので、彼らの前に覆い被さったら、こんなケガをしたのだという。片足、片腕が動かなくなっても海賊を殲滅させてくるあたりは、流石の実力といったところか。実はその後苦戦を強いられて背中の傷や脇腹のケガに発展したのだが、名前はそこまで詳細は語らなかった。既にご立腹のサカズキを更に怒らせるなんて馬鹿な真似など誰がするものか。


「それでお前さんがケガをしては元も子もないじゃろうが」
「死者三人と重傷者一人では大違いよ」


主に被害状況と気の持ちようの問題で。


「私一人がケガするくらい安い―」
「己の身体を蔑ろにしようとするな!!」


名前を遮ったサカズキの怒り溢れる声は病室全体に響いた。周囲の注目を集めたが、サカズキはそんなこと気にもとめない。名前も彼の大声に驚いているのでそちらに気を向ける余裕などない。彼がここまで本気で怒ったのもいつ以来だろうか。


「海賊がいかに非道で下卑たものか覚えちょるじゃろうな」


怒り心頭のサカズキの威圧感に気圧されつつも、名前は頷いた。彼女に海賊というものを教えたのはサカズキだ。海軍に所属する上での戦い方など、彼が手塩にかけて育て上げた女が名前なのだから。


「お前さんが重傷と聞いて、わしがどれ程心配したかわかっちょるんか…」
「サ、カズキ…?」


驚いた。今し方怒鳴られた時よりも驚いた。サカズキの顔から無念さが伝わってくる。彼が、自分を含め誰かにこんな顔を見せたことが今まで一度だってあっただろうか。目立った愛情表現など両手の指で数え切れる程度しかないサカズキのその表情と彼の心配という事実は、下手な言葉なんかよりもよほど名前の胸に響いた。


「名前。お前は何年ここにおるんじゃ」
「……」「お前さんが傷ついて、わしがつらぁないとでも思うちょるんか」


サカズキの大きな手が彼女の頭を包んだ。マグマの能力のせいか、触れる部分があたたかい。言葉も、声色も、表情まで優しい彼に名前は幸せそうに目を細めた。


「頬まで切られおって」
「あ…っ」


さすがに咎めようとした彼女を、サカズキは唇で塞いだ。手負いで抵抗の弱々しい恋人に愛しさが溢れ、そんなつもりなかったのにキスは深いものとなってしまう。色恋に疎い彼が、なりふり構わず自分を求めてくる様は例えようもなく嬉しいもので、やがて名前はそっと目を閉じた。絡まる舌から葉巻の苦味が広がっていく。サカズキが気が急くのを落ち着ける時に吸うものの味だ。いかに自分を心配してくれたのかがよくよく伝わってきて、更に嬉しさが込み上げる。


「サカズキ…」
「なんじゃい、名前」


唇が離れた途端に彼女に名を呼ばれ、たしなめられるかとサカズキはその時を待った。しかし、名前が見せた顔が存外に優しいもので目を見開く。


「心配かけて、ごめんなさい」
「…笑って言う台詞じゃないわい」


その笑顔に、熱くなった頬を持て余しながらも、サカズキはようやく笑みを見せた。





キスが甘いなんて幻想
(だって、甘いなんて言葉じゃ言い表せないくらいに)



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企画『ごめんなさい』へ捧げます
素人ながら許容いただき大変ありがとうございました。



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