幸福になる覚悟はあるか

 
 真田誕生日祝い話




「アンタももう二十八歳なんだから、そろそろ落ち着いたらどうなの」
 という話も、彼是何度聞かされたことだろうか。耳にタコが出来るとはこのことで、挨拶の次には「歳が」「適齢期が」「孫が」と続くのが当然の流れである。それ以外に話題は無いのかと溜息を吐きたくなる程、いつもいつも同じ話。
 そして、付き合わされている真田もまた、慣れた口振りでこう返す。
「いや、自分は、配偶者を迎えるにはまだまだ未熟者ですから――」

 此処までが、(全く以て文字通りの美しさはないのだけれど、)様式美に近い、出会えば交わす恒例の遣り取り。言い方は色々あれど、ニュアンスとしては大概このような意のことばかり。世間話をする程度の近所の人達からすれば、この男本当に素敵な恋人が出来るかとか、結婚は何時になるかとか、正しい意味で気に留めては無いのだ。あくまで喋るネタが欲しい、といったとこだろう。だからこそ、中学時代は友人に揶われると一々律儀に反応していた真田だって、多少大人びた対応が出来るというものだ。無神経な言葉に大して傷付きもしない彼は「では、」と会話を切り上げて、日課である早朝のジョギングを再開した。
 五月二十一日、日中は初夏を匂わす暑さになってきたものだが、朝はまだまだ春らしい肌寒い気温で、火照る身体を程良く冷やしてくれる。整備されている広めの歩道は、昇り始めたばかりの朝陽に照らされ、美しい。早起きする癖のついた老人と真田くらいしか活動していない様な、閑静な住宅街。其処を、彼は一定の速さで駆け抜けた。
 そのスピード、時速十二.四キロメートル。誤差はほぼ無い。
 全てに於いて、規則正しいリズム。声を掛けられることも、話す内容も、走ることも、それ以降日没までに起きること全部がルーティン・ワーク並の退屈なものと化している。今日の日付を尋ねて、その答えが三日前でも三日後でも、さして問題は無いのではないだろうか。
 という、単調な日々。蔓延る、漠然とした不安。
 特別なことなんて求めていない。決まったことをきちんとこなしていくことが、何よりも心身の鍛錬となり、自身となるのだ。――なんて。思ってはみるけれど、それで靄が晴れたのかと問われれば、彼は些か素直な人間だから、頷けやしない。
 朝の匂いは相も変わらず微かに肌と鼻孔を刺激する。毎度、身が引き締まる思いにはなるのだけれど――それすらも、変わり映えの無い日々とも云えるのだった。


 ――だから。
「朝からジョギングたぁ、いつまで経っても鍛錬に熱心じゃねーの」
 だから、突然聞こえた自分宛らしい言葉に、予定調和は見事狂わされ、恐ろしい平穏はたった一人の男によって打ち砕かれたのだ。
「よう」
 ハスキーで艶のある声色、それと独特の口調で紡がれた台詞を耳にして、真田は、金縛りに似た現象に身を蝕まれた。当人の顔を確認する前に、反射的に身体が固まってしまい、そのまま、目の表面がじわじわと乾いていく。何年も耳にしていなかった筈のそれは、深い交流があった頃よりは当然大人びていたのだけれど、その声の持ち主を瞬時に理解出来るくらいには、真田の印象に残っている人ではあったみたいで。
「……お前、は、」
 ごく、と一度喉を鳴らし声を出して、緊張を和らげる。ジョギングのせいか、心拍数は胸が痛む程あがっていく。この男の来訪のせいなんかではない。決して、決して、だ。しかし、脳内で思い描く人物と一致するか確かめてもいないのに、頻りにそう否定したくなるのは何故だろう。いや、それより何より、再会に相応しい身形や心の準備というものが――。

 ええい、煩わしい!
 勝手に誘発して膨れていった思考たちを、自分を強く叱咤して一掃する。その喝で、すっかり硬直していた身も何とか己の支配下に戻すことに成功した。
 突然の来訪に幾ら吃驚したとはいえ、振り返るまでに何秒待たせる気だ、真田弦一郎。思い切ってぐっと、声のある方へ――真田家の門に背を凭れさせている男の顔を確認してみる。
「テメェは変わらねぇな、真田」
 其処には確かに、真田が予想した通りの、中学以来の旧友が佇んでいた。
 ――とはいえ、男は「変わらねぇな」と言ったものの、勿論互いにあの頃と同じ風貌・服装の筈は無く。
 上流階級の雰囲気溢れるブラックのユーチップ。一目見て高級さが窺える上下グレーのスーツははだけており、また、内側に着用している白のワイシャツも二つばかり釦を閉じておらず、色香を伴う開放感は如何にも彼らしい。
 容姿だって、相変わらず整ってはいるのだけれど。十五の頃よりは歳を重ねた顔付きで、当時酷く眩しく輝いていたと記憶していた鋭い碧眼はどこか彩度が低くなったような。
 髪型も、あの頃同様額を見せてはいるが、黄金色の髪は後ろの方へと靡くオールバックになっている。変わらないのは、右目の下にある泣き黒子くらいじゃないだろうか、と思う。
「……そんなことも無いだろう、互いに」
「ックク、そこは同調しとけよ、バーカ」
 仮にも、十数年ぶりの再会であるというのに、この、謙虚さの感じられない尊大な態度。それがまた、真田を――胸の奥で眠らせてすっかり埃でも被っていそうな高揚を、今の日常では感じることの出来ぬ昂ぶりを少し、目覚めさせた。

「ところで、だ。時間はあるか、真田よ」
 と、上機嫌にそう尋ねてくるが、彼は、真田弦一郎という男の性格を分かった上で敢えて聞いてくる節が昔からある。久々に味わったこの憎らしさに、真田はまた、胸中に湧く説明のつかぬ不可解な熱を感じながら、それを隠すように口を尖らせた。
「……俺が、遥々遠くからやって来たであろう旧友を追い返すような男だと思ってるのか――跡部」
「いいや?ちっとも、」
 ――これだから。これだから、この男は。跡部景吾という男は!扇情的な言動は本当に憎たらしく思うのだがどうにも嫌いではないし、嫌いにはなれそうにないのだ。軽口で煽られる怒りに似た熱情が、真田の本性を引き摺り出してくれる。
 真田は無意識に、燻る煙でも吐き出すように深い溜め息を吐いた。あの熱をほんの少し鎮めた気になって、苦々しく言い放つ。
「まあ、あがれ」
「ああ」
 そう促すのを待っていたと言わんばかりの即答。一々相手をしていたら一日中家に入らず立ち話になるような気がして、苦言を口内で留めた。
 すっと跡部の横を通り抜けて、汗をぬぐいながら玄関へと向かう。スニーカーの後を追う革靴の音が、自分とは違うリズムで鳴らされる音が、背に感じる彼の気配が。酷く、心地良かった。





 跡部を客間に通すと、真田は着替えを済まし、冷えた茶を二つ用意して彼の下へ戻った。
 話題には大して困らなかった。跡部が饒舌だからというのもあるのだろう。あれからどうしてた、現在は、当時の仲間は、と話していけば、それだけで軽々と二、三時間と経過した。確かに一つのスポーツを通じて深く分かり合った仲、ではあったかもしれないが、大人になって近況報告をするような間柄ではないものだという認識があった為、不思議な感じではある。(実は、跡部や自分はテニスを止めてしまっているのだが、それはまた別の話、だ。只、それに関して、俺達はこの時決して触れることはしなかった)
 途中、ジョギング後というせいもあって空腹を感じていた真田は、一旦朝食にしないかと提案した。起床してからコーヒーを一杯しか腹に入れていないと言う跡部は、「折角だから甘えさせて貰うぜ」とその案に賛成した。すると、真田としてはあくまで自然な流れで台所へと向かったのだが、彼の両親がまだ起きていないのを察していた跡部は咄嗟に、何の気なしに問うた。
「オイ、テメェが作るのか」
「む、ああ」
 そうだと言えば、物珍しいものでも見るような目で見返される。あからさまに、好奇が含まれた視線。それを受けて、真田は心外だという表情をしつつも、渋々ではあるが、彼が持っているであろう疑問に、尋ねられる前に答えてやった。
「……生涯独身だった時のことをと言われてな、料理を覚えさせられてるんだ。朝食は、数年前から俺の担当になっている」
 真田は。そのことを他人に言ったのは朝食担当を始めたばかりの時、つまり数年前だったせいで、散々幸村と柳に笑われたことを忘れていたのだろう。
「……ハ、ハハハ!アハハハハ!――ッフ、クク、そ、そいつは大変だな、真田ァ」
 だから、跡部が爆笑した次の瞬間、その恥ずかしい記憶を取り戻しはしたが、それでは勿論「時既に遅し」であり、真田は自ら晒してしまった実情に恥辱を覚えるしか無い。
「わ、笑うな、おい」
「いや、だってよ、……は、花婿修行頑張れよ、真田。お、応援してるぜ?」
「っ、要らんわ、馬鹿者!」
 真田は吐き捨てるようにそう言うと、跡部の揶揄を振り払って無理矢理居間を後にした。



 その後も、面白がった跡部によって羞恥心を煽られつつも、花婿修行中の真田が用意した朝食によって、無事腹も満たされた。そんな満腹感からくるのか、それとも久々に会った旧友と時間を共にするのが意外と心地良かったからか――今日は丸一日、彼との話に付き合うのも良いだろう、と思った矢先の事だった。
「――テメェはやっぱり変わらねぇな、真田」
 引き続き、他愛もない会話をしていた筈だった。いや、だから、なのかもしれないが。跡部のその声が存外弱々しかったことと、その台詞が、出会い頭に続き本日二回目であったことが、真田の気を引いた。

『テメェは変わらねぇな、真田』
 その一言にどんな思いを詰め込んでいるのか。
 跡部が何を言いたいのかは分からなかった、けれど。
 そう、二度もぽつりと零した彼は、確かに変わったのだろう。
 単純に老けたという話だけではなく、彼の纏う雰囲気自体が落ち着いた。思い返せば、歩き方、話し方には余裕が増していたし、こちらを見る眼差しまでもが柔らかい。跡部景吾という存在であるから、つい期待してしまうけれど、心臓を射ぬかんとする程の鋭さは、感じられなくなってしまった。
 アンティークのように深みを増したと言えば聞こえがいいが、昔テニスコートで彼と一対一で向かい合った身としては――彼はこんなに小さかっただろうか、と。そんな錯覚まで起こしそうになる。学校の名に相応しい、帝王が如き気迫、態度、輝き。そのどれもが丸くなった。
 その変化は、矢張り、単純に置いた故のものではない。
 今日会って少し話したくらいじゃ、彼のことなんてちっとも解してやれないのだけれど。現在に至るまでの経過も、彼が話さない限り知り得ないのだけれど。
 敢えて、敢えてこのまま推測するならば。

 跡部は、変わらずにはいられなかった、のだろう。

 少なくとも、当時、その振る舞いに相応しい実力があって、何よりテニスが好きであったに違いない彼だ。所謂「少年らしい純粋さ」を保持したまま、別の道を選ぶだなんて、――彼でなくとも、出来やしない。
 最近どうだ、という話はした。その時、彼は充実してる、と答えた。口では何とでも言える、とはいうが、彼はプライドは高いものの意味の無い虚勢を張るタイプではない。事実、ある程度の充足感は得ているのだろう。家を継ぎ、独立した父の後を継ぐための勉強と仕事を両立させていると言っていたから、相変わらず多くの者に支持され慕われているのだろう。今着ているようなスーツを靡かせ、活き活きと部下に指示し着々と仕事を熟す姿なんて容易に想像できる。
 だが。
 自己中心的にみせながら他者の期待に応える跡部景吾の本質も、本当に自分が好きだからこそ続けた要素を持つテニスをやめる選択をしたことも、どちらも知っている真田としては。
 自分を高めることも、安らぎを得ることも出来た偉大なる存在を失うならば、その人は――。


 ――ええい、煩わしい!
 そう、二度も同じ日に思ったのは、ある種真田も同じだった。
 考えたところで結論は出ない、出たとしてもそれが何になるのだ、一時の気休めにしかならない答えが、真田のような実直な人間に必要か――否、だ。
 二度の煩悶とその払拭で、真田は漸く覚醒した。
 こんな風に、無意識の内に傷付けないように傷付かないようにと当たり障りのない話をして、答えが芳しくない度に悶々として、あの手この手で探り合うよりも。
 もっと、もっと手早く、簡単に、お互いの意志を知る方法が在る筈だ。

 腐ってしまいそうな程変わらない日常が怖いか、変わってしまった自分が怖いか。
 どちらだって、今からでも充分、その変化そのものを覆せるじゃないか。
 ――あの日の強さがあったなら!


 こうして、彼らしい一つの解を得た時、もう、座って談笑だなんて下らないこと、していられなかった。確かに楽しかったかもしれないが、それは会話好きなのではなく、変化があったからだ。跡部相手にこんなこと、性に合わないのだ。
 いてもたってもいられない、そんな想いが胸中を占める。何度もふつふつと込み上げる高揚が、この身の内側で騒ぎ出す。黙想して心を落ち着かす間すら惜しい!寧ろこのままが良い、とすら思う。
「跡部、上着を脱いで、少し、待っていろ」
 その見るからに高級そうなスーツなんぞ幾重もの皺を刻み駄目にしてしまえ!という神さまのお告げでも得た気になって。真田は彼を置いて早足で、ある物を取りに行った。
 昔、自分達を繋いだ、この世で最も尊い玩具たちを。




「やるぞ」
 真田はラケット二本とテニスボールを一つを持って戻ってきては、不躾にも、ラケットを一本跡部の懐へとぐっと押し付けた。
 跡部からすれば突拍子もない誘いではあったが、真田の目が全てを語っていた。変わらないとか、変わったとか、そんなもの気にしていないで、あの日の熱を蘇らせてみないか、と。洞察力に長けた跡部なら、全てとはいわなくとも、真田がやりたがっていることくらいは分かる。
 だが、彼の口から出たのは。
「……なんだよ、急に、こんなもん渡しやがって」
 といった、苦笑混じりの揶揄であり、ひと夏に全身全霊を捧げた事のある物の口振りとは思えないものだった。
 真田は当然怒り、睨みつけた。
「こんなもん、だと?」
「……そうだ。だってよ、お前、……何年、やってないと思ってやがる、」
 今更、とでも言いたげな、恨めしげな視線が真田とぶつかる。
 まあ、百歩譲ってその通りだとして。当時の年齢の二倍近くになったのに、今更、今更テニス一つでどうになる――?

「――関係、無いだろう」

 答えは。
 どうにでもなる、だ。
 だって、幾ら時は経てども、あの時費やした時間が、過去が、消えるわけでは無いのだ。記憶の何処かに、身体の何処かに日々の努力と感動が残っている筈なのだ。
 なら、思い出せば良い。思い出させれば、良い。ラケットを持って、黄色いボールを追ってみるだけで、ありありと浮かぶだろう、黄金色よりも眩い――在りし日の至高の情景が!
 過去に向かう坂を転がる心、蘇る輝かしい日々、その象徴ともいえる人物を自ずと想起した真田は、いつの間にか、こう口にしていた。

「20××年、全豪オープン・ベスト16決定戦、リファード・エルゴ対――?」

 それは、彼が前に生中継で見た試合のこと。
 国内でも大きなニュースになった、跡部がその時日本に居なかったとしても――彼が大層気に入っていた好敵手のことだ、チェックしていない訳がない。
 実際、そこまで計算して言ったことではなかったのだが、彼の直感に、跡部は見事に応えてみせた。
 
「――手塚、国光」
 そして、その名を言った跡部の目は、先刻の落ち着き払った色から一転、子どものような――今の真田と同じような煌めきを宿していた。真田の闘争心を、屈服させたい欲を煽る、美しい獣の目。ほんの一瞬で若返ったような表情をされて、少し、手塚が憎くなる。名前一つで跡部を高揚させるのは、彼以外には居ないだろうと分かるから。
 しかし、それも仕方ないというものだろう。テニスを止めた者の中で、彼の人生に憧れを抱かないものなんていやしない。僻み・妬みからくるものではない、自分の人生と比べているのでもない、あくまで純粋に、羨ましいと思うのだ。
 苦難を超えて、好きなテニスを、生業にしている姿に。
 だが。
 跡部や真田が、彼のようになりたかったかはさておき、今そうなりたいかといえば、答えはノーであるし、全くの別問題なのである。
「軽く、軽く打ち合うだけだ、良いな」
 と言いつつ、急に素直にラケットを受け取って、不敵な笑みを浮かべる姿。無理にでも誘ってみた甲斐があったというものだ。
 一番近いテニスコートは、徒歩十分のところにある市営のものだ。以前真田は何度か跡部を連れて其処に行ったことがあって、だからか、跡部の方が我先にとユーチップの革靴を履いてその方へ向かった。真田はスニーカーなりなんなりせめてもう少し動きやすい靴を貸そうとしたが、しかし、跡部とは一センチほどサイズが違うことを思い出す。それを分かっているのか、跡部は一言も貸せと言わず「動きにくかったら脱ぎ捨てるから気にすんな」と宣うくらいで。
 逸る気持ちを抑えられない子ども。あの頃より余程子どもっぽいかもしれない。
 終始そんな調子なものだから。

『……そうだ。だってよ、お前、……何年、やってないと思ってやがる、』
『軽く、軽く打ち合うだけだ、良いな』

 とは、一体誰の言葉であったか、真田は意地悪を言いたい気にすらなった。これが、果たして、ラリーする気のある者が放つ打球の重さか。答えは――言うまでもない。
 テニスコートに着けば、二人は必要最低限の会話しかせずにそれぞれ位置に着いた。サーブ権は自然とボールを持っていた真田になって、その時、彼はあくまで『軽く打ち合うだけだ』という跡部の台詞に配慮してサーブを放ったのだが、返ってきたのは――笑えるくらい素早く決まった、リターンエース。思わず唖然として跡部を見れば、彼奴ときたら――妖しく笑っているのだ。
 その表情で理解した。軽く打ち合うだなんて、今まで結婚云々で近所の人に言われたどんな社交辞令よりも社交辞令だったのだ。
 そして、そう悟った時、真田もまた、ニヤァと何とも悍ましい笑みを浮かべていた。
 そうだ、そうこなくては面白くない。喜悦で腹筋がぴくぴくと震え、ラケットを握る手が汗ばむ。
 五月下旬、朝十時の太陽は突然きつく照り出し、頭上の空は海のような青一色に。風はぴたりと止んで、うだるような暑さが肩に乗る。
 きっと、錯覚だ。錯覚、なのだろうけれど――奇遇なことに、跡部にも同じ景色が見えていた。
「――もう手加減せんぞ」
「あーん、手加減なんて誰が望んだよ」
「……貴様」
 それから、真田は本当に少しも手を緩めることなく、今の彼が出せる最高の力で打った、打ち続けた。何度目かで、真田のサービスエースが決まると、跡部は革靴と靴下を脱ぎ捨てて、お高いスラックスの裾をぐいぐい折った。白い足が無邪気且つ縦横無尽にオムニコートを駆けまわる。
 およそ一端の社会人がする所業ではない。のに、だのに、二人はそんなことまるでお構いなしだ。
 歳をとって身につけた常識とか理性だとか、そんなもの、今この時だけはかなぐり捨ててしまって。気後れすることなく、全力で『軽く打ち合う』のが、互いへの敬意の現れなのだ。幸福になる覚悟なのだ。
 そして。
「おいおい、今のサーブは何だ、ヘボ過ぎんぞ!」
「ふん、貴様こそ、動きにキレが無くなってきているぞ!」
「んだと、あーん?!」
 そうさせたのは、跡部をこんな状態にさせたのは――あの手塚では、ない。彼の名は、あくまで切っ掛けに過ぎないし、また、彼と好敵手であったことが本当に誇りであるならば、そのプライドが、強くなっていく一方である彼と対等には渡り合えない自分が試合しようだなんて、言い出せるはずが無い。
 こんなにも無様で、美しい跡部を手塚国光にはもう知る由が無いのだ。
 そう。俺が、俺こそが引き出したのだ。
「おら、もっとこいよ、真田ァ!!」
 跡部景吾の本能を!






 『軽い打ち合い』と称したこの遣り取りは、水分補給や短い休憩を何度か挟みつつ――陽が暮れるまで、続いた。普段使っていない筋肉を酷使したからか、今ですら全身が心地良い悲鳴をあげているようだった。明日には只の筋肉痛に変わるのだろうが、それでも、今が良ければ全て良し――なんて、向う見ずで未熟な思考に成り下がる。
 ネットの向こうでは、跡部が足裏の砂を一通り払い、靴下と靴を履いていた。もう帰るのか――そんな言葉を掛けそうになるが、ぐっと堪える。
 この日に、今日という日に充足感をくれた彼奴にこれ以上何を望むというのだ。がむしゃらに打ち合って得た、高揚、変化、自信。鍛えていた筈なのに失われていったものを、漸く手にしたというのに。不思議な達成感と、終わってしまった寂寥感が、彼をいつもの厳格な真田弦一郎に戻させて、その口を噤ませた。
 真田は靴ひもを結び直すと、ふらふらと立ち上がった。それに呼応するように跡部もまた、よろめきながら立ち上がった。一日で皺だらけになったスーツを黄昏の風に靡かせながら。
「ックク、良か、った……」
「――ん?」
「いや。じゃあな、真田、まあまあ楽しかったぜ」
 挨拶と共に渡されたのは、真田のラケットだった。
「あ、ああ」真田が受け取ったが最後、跡部は満足げな表情を浮かべて、踵を返す。背を向けて、左手をひらひらと振りながら、遠退いて行った。コートを出て宵闇に消えて行くその背は、遠くなる程、十五歳から三十間近になっていくようだった。けれど、もう、昔テニスコートで彼と一対一で向かい合った身としては――彼はこんなに小さかっただろうか、という下らない考えが及ぶことは、無かった。



 ところで。
「……結局、何しに来たのだ、彼奴は」
 彼はどうして来たのか、よくよく考えれば分からず仕舞いであることに気付く。こんな風に前触れもなく乗り込まれたのは、全国大会前に立海で、非公式に手合せをした以来だったか。あの時も、一切理由も告げずに「完成だ!」とかなんとか叫んで、一人満足していた。
「……ッフ、相変わらず、破天荒な奴だ」
 呆れるように、されど慈しむような声色で呟く。
 そして、それで良い、と頷いた。

 俺も、帰ろう。そう思い、テニスボールをズボンのポケットへ入れようとすると、ちり、と手の甲に痛みが走った。何かが軽く食い込んだような感触。何か入っていることに気付く。
 取り出してみると、それは五センチ×九センチの厚紙――つまり、名刺であった。何時の間に入れたのか、先刻まで時間を共にしていた男のもので、其処には当然、会社の名やメールアドレス等が記載されているのだが。
 最も注目すべきは、その裏。
 達筆な字で書かれた、彼のプライヴェーと用のメールアドレスと電話番号らしきもの、それと。
『ハッピーバースデー、真田。良い一日になったか?』

「――っ、馬鹿者!」 
 何が、何が『良い一日になったか?』だ!
 真田は憤慨した。随喜しながら憤慨した、珍しく器用である。
 成る程彼は、凡そこういう運びになることを予想していたらしかった。流石に演技なんていつかの先輩染みたことはしてはいないだろうし、真田に対して本音・本気・素の彼でぶつかってきていたとテニスの最中に感じ取ってはいたが。もし、彼が何かしらの変化を求めて此処に赴くなら、持ち前の洞察力の鋭さからして、もっと早い段階で来ても可笑しくない、のだ。
 五月二十一日という日に覚醒した、なんて奇跡が有り得ないことは、早朝から彼が神奈川なんぞにいた事が証明している。
 つまり、だ。
 一つ、明確に言えることは、『テメェは変わらねぇな』と真田を煽った跡部は、己が転機を、敢えてこの日に選んだということだ。

 いとも容易くカッと、熱が遡る。先刻までの熱が息を吹き返したように、全身を激しく燃やす。何時間と『軽い打ち合い』をしたこの手が、足が、爛れ落ちてしまいそうな、そんな熱。身を焦がす、心煽る、粋な熱。

 欲しい、と思った。

『この日に、今日という日に充足感をくれた彼奴にこれ以上何を望むというのだ』
 こんな意思さっさと翻してしまって、強く、欲しいと思った。
 手にしたい、手中に収めたい、対面するだけで自分が欲しいものに気付かせてくれる、あらゆる願望を実現させる気にしてくれる――あの男が。
 跡部景吾が――。

「あら、真田さんとこの次男じゃないの」
 テニスコートから出て立ち尽くしていた真田の前に現れたのは、今朝とはまた別の、会うと世間話を交わす程度の近所の住民だ。
 この人も例に洩れず、真田に対して適当な気持ちでああだこうだ言う人で。二、三分もすれば、例の話を振られる羽目となった。
「ねえ。もうお兄ちゃんの息子は大学生になったんだから、アンタも早く良い人が出来ると良いのにねえ」
 ――が、しかし、だ。
 今の真田には、このお節介な台詞は、俄然、甚く新鮮な響きとなって、耳に届いたらしかった。
 だから、この時、真田が勢いでしてしまった返事の内容というのは、一夜の内に近隣住民のホットな話題になる程の、噂好きな彼女らにとっては格好の餌となるようなもので。後々彼も、安易に言うものでは無かった、たるんどる!と自らを叱責せねばならなくなるのだけれど――。
 真田は初めて、型どおりでは無い言葉で、言ってみせたのだ。

「――居ないことはないです」






 おわり



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 お題配布元:亡霊様
 文章協力は相方のロジでした。いつもありがとう!
 彼女の素敵な絵は後程
 あ、リファード・エルゴはある有名な選手のアナグラムです。
 四天王のあの人です。


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