鍵 後編

 



「おっ、い、ッコラ、待て、手塚――!」
 流石現役スポーツ選手。心身共に疲弊した三時間を乗り越え彼の脚は動く動く、行く宛が無くとも走る走る。
 しかし、跡部とて、テニス以外のことを仕事とする将来を選んではいたが、身の鍛錬まで止めたわけではなかった。そのお蔭か、疲労を抱えた手塚相手ならば、充分付いて行くことの出来るスピードで追い掛けることが出来た。
 そうとなれば後は体力勝負――十分後、跡部の勝利が確定した。

「この、野郎……な、んで、逃げだしたんだ、おい」
 二人の白い息が宙を舞う。走る余力も無い手塚は――此処で漸く、自分の想いを素直に吐露することが出来た。
「ど、……して、怒らない、んだ、お前、は」
「怒る……?何の話だ」
「……鍵のこと、だ」
 もう一度口にすると、矢張り自分は失くしてしまったのだと、これは現実であるのだと再度痛感して、胸の奥がきゅう、と心苦しくなる。
 鍵を失くした。
 彼の信頼を無下にした。
 だからこそ――跡部に怒って欲しい。喧嘩がしたい、のではなく、自分の無礼に対して相応の処置を取って欲しいのだ。それでこそ、気持ちが釣り合うものではないかと手塚は思っている。
 そんな手塚の願いが通じたのか否かは誰も預かり知らないところではあるが。
「ああ、――そうだな、怒りてぇな」
 跡部はそう言うと、地べたに尻をつく手塚の胸倉を掴んで、言葉を続けた。

「何か困ったことがあった時、直ぐに言わない――何時まで経っても独りで抱えようとする癖の抜けないお前の性格については、怒鳴り散らしてやりてぇよ」

 眉間にぐっと皺を寄せて真剣に怒られて、手塚は改めて反省――よりも先に、ほっとした。彼が怒ったこと、そして怒りの矛先はきちんと一個人としての手塚国光に向けられていることに一先ず安堵した。……それからやっぱり反省した。

「大体、鍵がねぇって気付いた時点で何で連絡してこなかったんだよ」
「……すまない。だが、鍵を失くしただなんて、言いだしにくいだろう」
「言えばいいじゃねぇか。何の為にくれてやったと思ってんだ。少なくとも、お前に独りで悩ます機会をやるつもりは無かったんだがな、あーん?」
「それは……」

 跡部が言うことは至極正論で、手塚は只管打ちのめされるしかない。当初の手塚が望んだ通り、跡部は彼の失態を一つずつ説教していったのだが、目に見えてしょ気ていく姿を視認して尚――というのは、手塚に甘い跡部には酷なことであって。跡部は叱責を中断し、服を掴みあげていた手も放し、事態が収束に向かいつつあることを喜ぶことにした。

「――あー、まあ、良い。テメェがそんくらい大事にしようと思ってくれたことは、嬉しい、しな」

 そして、あくまで手塚を元気づけようと、救ってやろうとして続けた台詞こそが、手塚の悶々を一瞬で払拭し、自信を取り戻させるその端緒を開かせた。
 跡部は優しい面持ちで言った。

「あのな、手塚。鍵は、――家にある」



「――は?」

 この時の手塚の顔、それと声ときたら。先程まで反省やら逆上やら安堵やらと手塚らしくない忙しない時間を過ごしていたが、彼の中で渦巻いていたそのどれからもぱっと解放され、ぽかん、と。所謂間抜け面と素っ頓狂ないらえを晒したのち、彼は少しずつ、普段の手塚国光というやつを――跡部に対しての優勢さを取り戻していったのだ。
 また、手塚の変わり様に思わず身じろいだ跡部は、あれ、もしかして俺、やっちまったか――とか、後手に回りながらじわじわと後悔していくのである。

「や、家に、……ある」
「……は?」
「ちっ、だ、から、家にあるっつってんだ。ベッドのサイドテーブルに置いてあるぜ」
「……はあ」
「……手塚?」
「――っどうしてそれを、早く言わないんだッ!」
「な、う、うるせぇ!俺様だって悩んでたんだぞ!」

 手塚の怒りに共鳴でもするかのように怒声を上げた跡部に「悩みだと?」と言いたげな鋭くきつい目線を送れば、彼は、う、と唸った後、苦虫でも踏み潰したような、なんて慣用句の似合う表情になって。今度は、跡部の方が己の想いを、不本意ながらも吐露するに至った。



 跡部が抱えた悩み――それは数日前に遡る。

 手塚が今日になって鍵を失くしたことに気付き、大慌てしたように――跡部もまた、数日前、自室にて、手塚にやった筈の合鍵があることに如何せん焦燥したのである。
 ああ、なんだ手塚、忘れて行きやがったな――そう思った瞬間、彼を支配したのはやさしい呆れではなく、厭な予感に満ち満ちた恐怖であった。
 ぞわぞわと背筋を這う寒気に、跡部は困惑した。
(忘れて行った?)
(本当に、そうか)
(万が一、万が一だが)
(――敢えて、なんて、な)
 わざと置いていった。――あの手塚がそんな器用な芸当、出来る筈あるまい。だのに、及ばなくていいところまで考えを巡らせた跡部は、あっという間に愚考で雁字搦めになったのだ。
 手塚国光は何でも独りで抱え込むきらいがあるのを、跡部は知っている。彼と友人だった頃も、付き合った今でも、気付けば悩みを勝手に抱えていて、その上自己解決した後だった、なんてざらにある。そんな手塚の姿を見る度に、なら俺はなんでお前の隣にいるのだろう、と考える羽目になり、その都度苦汁を嘗めさせられてきた。

 また、この鍵は。

”お前の為に用意した”
”嗚呼、……特別に、だ”
”だから、何時でも来てくれて構わねぇ”

 ……とまで言って、渡してしまった代物だ。
 余談だが、跡部は手塚の全てを愛せる自信があるが、それ程深い愛をまた自分にも贈られたい、等とは微塵も思っていない。手塚に対する跡部の愛というものは本人ですら語り尽くせぬほどもので、それと同等の愛情なぞ、望んでも得られないだろうし、そもそも手塚がこの想いを受け入れ、隣にいてくれるだけで良かった。
 だが、その慈悲深い情も、手塚と付き合っている内に、ほんの少し考え方が変わったところもあって。
 折角、自分と面と向かって真摯に好意を寄せてくれているのだ。ならば、手塚に何か自分の特別を捧げたい、託してみたい、成る丈彼にも分かり易い形で――そう思い、悩み、決心した結果、渡したのがこの合鍵であった。
 故に、跡部はこうも懸念していた。

 手塚には、荷が重過ぎたのかもしれない、と。


 ――だから、もしかしたら。
 今回も、手塚が独り苦慮してしまった、とかいうパターンのやつで。
 付き合っている跡部本人に不満一つ言えないまま――そのまま、酷く残忍な結論を出したのではないか、なんて。
 悲しき哉、跡部がこう危惧してしまう要因は幾つもあった。
 ――いやいや、あの手塚に限って、と、無理して鼻で嘲笑えたのも束の間、厭な可能性というのはどうしてこうも反芻しては自らを絶望の淵に追いやってしまうのか。恐ろしい。恐ろしく愚かである。跡部は不幸にも、下らないロジックに嵌まり込んでしまった。

「今日行こうと思っているのだが」
 手塚からそのメールが今朝届いた時、跡部は単純に安心すれば良かったのだ。何だ、結局今日も来るじゃねぇの、ほら、やっぱり忘れてっただけだなあの野郎――そう悪態吐いて、その調子で手塚に一言文句を言ってやれば、こんな嵐起きずに済んだというものの。
 しかし跡部は、手塚に直接対面するまで、数日間掛けて培ってしまった不安を拭い去ることは出来ないだろう、と、自身をそう考察した。
 惨たらしいほどに狼狽えない、常にいつも通りな男というのが、手塚だから。二人の間ではありふれた短文メールの遣り取りでは、跡部の「もしも」が甚だ馬鹿げた推論であるという決定打にはなり得なかった。

 そうして彼は、「ああ、五時過ぎには帰宅する」とだけ返信をして、家を出たわけである。
 外出中、跡部は今日のことを考えていた。
 取り敢えず、手塚が来た時はせめて、出来る限り優しく接しようと。もし言いたくても言いだせないことがあるのなら、自分は。彼が胸の内に抱えている(やもしれない)懊悩を、吐露しやすい空気を作ってやろう。不遜な王様からの極上特別大奮発なサービスでもって、めいいっぱい優しくしてやろう。彼の口から洩れる言葉が、杞憂だったと告げるものでも、どれほど己にとって芳しくないものでも――。




「……お前は、馬鹿なのか」
 跡部景吾が羞恥心を胸に事の経緯を伝えきった時、失礼にも、手塚はそう一蹴した。
「てっ、てめぇ!言う事欠いて 馬鹿はねぇだろうが」
「いや、だってお前、……馬鹿だろう」
 はあ、と大袈裟な溜め息を洩らすと、珍しくも饒舌に捲し立て始める。
「まず、数日前、だと?何故その時に俺に一本連絡を寄越さなかったんだ」
「や、それはだから、」
「だから、じゃないだろう。そこで言えば済んだ問題じゃないか――いや、この際、問題が起きた事が問題、ではないな」
「……あーん?どういう、」
「正にさっき、お前が説教してくれた通り、だ。“何か困ったことがあった時、直ぐに言わない――何時まで経っても独りで抱えようとする”――悪い癖、だな」

 どんどん強気になっていく手塚は、跡部の言葉すら借りて、易々と彼を論破までした。その仕打ちに、抑えきれなくなった羞恥がカッと顔に出てしまい、跡部は悔しそうに頬を赤らめている。――何とも愛おしいものだ。胸を満たす感情が漸く温かいものになると、手塚は三時間分の蓄積された冷えと重ねて外出中の寒さが、ハッと思い返したように一気に身に染みて、早く――早くあの家に帰りたいな、なんてマイペースに考えた。


 さて、この一件で、手塚にはやらねばならぬことが出来た。
 合鍵を託した、託された、そこに込められた意味合いは二人同じで共有していたというのに、その事実がどれほど手塚を喜ばせたか、この男はちっとも分かっていないようである。だから、たっぷりと分からせてやらねばならない、そう思ったのだ。
 其処からこの互いにどこか遠慮がちになってしまっていた関係もまた、一層の発展を見せるのだろう――とも期待して。

「さて、帰ろう、跡部。ここは寒い」
「……お、前が言うのかよ」
「駄目か?」
 平常の手塚――よりも随分と強気になったような、いやこれこそ彼らしいと云うべきか。こうする、と決めたら頑なに強情になる性格が発揮されていると察した跡部は、諦めて――恋人に振り回される覚悟の下、答えた。
「――いいや、大歓迎、だ」


 家に着けば、半時間ほど前の跡部が言ったことには、直ぐに暖房つけて温かい飲み物でも淹れてやる、らしいから、そうして一服した後、きっとまた、唯一無二の合鍵を託し託される。
 その時は。

”お前の為に用意した”
”嗚呼、……特別に、だ”
”だから、何時でも来てくれて構わねぇ”

 ――二人を散々に引っ掻き回し合鍵と、あの言葉たちをもう一度。




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 鍵
 ツイッター企画「てづかくんとあとべくん」寄稿?作品でした。
 タイトルは仮なので思いつき次第差し替えようと思います〜


 


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