鍵 前編

 
 ※未来パラレル




”お前の為に用意した”
”嗚呼、……特別に、だ”
”だから、何時でも来てくれて構わねぇ”

「――な、い?」
 悍ましい事実を口にしてから、いや、そんな筈は、としどろもどろに、手塚国光にしては珍しく感情を――焦燥感を露わにする。
 あれ、だって、いつも確かに、だが、といった言葉で口内をくぐもらせながら、慌ただしい所作で、キーケースにぶら下がる鍵を一つひとつチェックする。これは下宿の、これは実家の、これは――とそれぞれどれがどんな機能を果たすのか、丹念に確かめてはみるのだが、どうしても、何度も懸命に確認してみたって、彼が求める物は見当たらない、見つけられない。
 まさか、キーケースから外れてしまったのだろうか――そんな、非常に芳しくない予感が胸中に訪れる。まあ、取れてポケットか鞄に落ちていたならば幸い、いや万々歳なのだが――この予感を得た時手塚は既に、そんな希望は流れ星に願いをぶつける程度の望み薄いものだと分かっていた。けれど、捨てきれない可能性に振り回され、彼は必死に、懇切丁寧に、普段は使わない鞄のポケットにまで手を突っ込んで探してみたのだが――使用しないのだから入っている筈もない、お目当ての物は見事、彼の身辺には無いことが判然としてしまったのである。

「失くした、のか?」

 再度口にする、悍ましい事実――去れど現実。
 手塚国光は失くしてしまった。
 彼の恋人――跡部景吾から貰った、大切な。
 彼の為に用意され、特別で、ことテニスに関すること以外では決して行動派ではない彼に何時でも来てくれて構わないとまでの言葉を添えられ、そして頂戴した――鍵。
 そう、跡部が現在借りているマンションの一室、其処の合鍵だ。

”お前の為に用意した”
”嗚呼、……特別に、だ”
”だから、何時でも来てくれて構わねぇ”
 跡部の声でしかと再現される、過去の或る幸福なシーン。恥ずかしさ故かほんのりと赤らんだ頬、真っ直ぐ見つめるかと思いきや直ぐに焦点を外へずらし、だが矢張りきちんと向き合って渡さなければ、と首から上が右往左往。何時だって自信に満ち溢れ、率先して民衆を扇動していくような彼が、そのコーティングを剥がされ、只の恋人に成り下がっていた。
 鈍感な手塚にも伝わるような、いじらしい葛藤がちらつく挙動の末、押し付けるように渡してきた愛おしいその形を、手塚は繰り返し触り、愛の輪郭を手に刻み込んだものだ。鍵という特性故に、きつく握りしめれば当然皮膚に食い込むそれを、これでもかと、痛いほどに握りしめた。
 ほとばしる随喜は仏頂面に出ること無く、代わりに鍵を包む左手に集中していた。
 血管や骨格がくっきり浮き出るほどの力で拳を作ったせいか、「に、憎い、のか?嫌だったか?」と不安そうに尋ねられたことも憶えている。そこで動じるあまり「そ!……なわけ、ないだろう」と変な返事をしてしまい、慣れない羞恥心を覚えたことだって、全て、全て、思い出せる。思い出される。
 そして――そんな幸せな記憶だからこそ、手塚はたいそう苛まれていた。

 正しく手塚の為に用意された、正真正銘、世界で二つとないもの。
 それを手塚は、失くしてしまったのだから。


「――家、か?」
 一気に渇いた喉から、恐る恐る一つの仮定を絞り出した。確かに、何かの弾みで外れて落ちたのなら、普段自分が身を置いている下宿の部屋にある可能性だってある、充分にある。――但し、だ。それはつまり、通ってきた道や使用した交通機関に落とした可能性をも認めることにもなる――が、幾ら骨の折れる行程が予見されるとはいえ、希望があるだけでも充分有難いのだ。と、そう思い込ませずにはいられない。
 それに幸い、今朝「今日行こうと思っているのだが」と跡部に連絡した際は、午後五時過ぎに帰るという返信を頂いた。そして今は、未だ午後二時を回った頃だ。オフ且つすることがなく、暇を持て余したが為に、早く来て先に中で待っていよう、だなんて気が向いたのが、せめてもの救いであったようだ。
 嗚呼、残り三時間――長いようで短い猶予。見つかるにしろ見つからないにしろ、彼には鍵の在り処を全力で探す義務がある。

”お前の為に用意した”
”嗚呼、……特別に、だ”
”だから、何時でも来てくれて構わねぇ”

 脳裏に再浮上する、貰った時に言われた台詞たち。あの時、確かに嬉しく思ったのだ、誰に頼まれるでもなく、大切にしなければと思えたのだ。
 何せこれは、跡部景吾の内側に入り込んでも良いという信頼の証。まさか手塚が箪笥・クローゼット類をひっくり返してまで跡部の秘密を探ろうだなんてことはしないだろうが、――仮にしたいのなら好きにすればいい、そう許されているのと同義なのだ(と、少なくとも手塚はそう感じ取っていた)
 それを、失くすだなんていう形で無下にしてしまったとなれば、跡部に対しあまり気を遣ったことのない男代表・手塚国光でも、狼狽えるのも無理ない。
 だからこそ、手塚には今までに感じたことがない種の、途轍もないプレッシャーが圧し掛かっている。何に強制されてるわけでもない。それでも、見つけなければ、という使命感ばかりが彼の胸中を何度も過るし、それどころか、見つからなければ分かっているんだろうな、という脅しのような――強迫観念すら潜んでいた。
 乱れた衣服を整えることなく、彼は早歩きで集合玄関を抜け出した。走らないのは無論、道端にも目を凝らし探す為だ。見落とさないよう細心の注意を払いながら入念に且つ素早く、手塚は目と脚に全集中力を注いだ。



 晩秋の侘しい風が吹き荒れる。散り行く枯葉には目もくれず、手塚は一人進む。逆風の中を突き進み、歩んでいく。
 間もなく冬が訪れようとしていた。季節を感じさせる冷気が手塚の身体をじわりじわりと蝕んでいく。運動、といえるほどの動きをしているわけでは無いから、その身を伝うのは見つからない恐怖による冷や汗ばかりだ。時間が経つにつれ鼻の頭や指先、足の爪先といった先端が痛いほど冷えていくのを体感していたが、そんなことに構ってなどいられない。「プロのテニスプレイヤーとしての手塚」は、体調管理は必須ではある、これで風邪を引いたなどと知れたら周りに失笑されるだろう、彼の活躍を楽しみにしている――し過ぎるきらいのある跡部にだって、落胆されるやもしれない。何馬鹿なことしでかしてやがんだ、とどやされるかもしれない。
 しかし、だ。それを理由に探すのを諦めるなど、言語道断!手塚国光という男、大した甲斐性は持ち合わせていなくとも、少なくとも、彼に託された信頼を裏切るような真似はしたくない。――なんて思うくらいには、手塚とて跡部のことを充分に好いているのだ。寧ろ、「案外手塚も跡部のこと――」と口を揃えて青学の旧友達に微笑されるくらいには、跡部のことを想うようになっていた(尚、その過程は省略させて頂くが、あの越前リョーマにすら「……お熱いッスね、部長」と言わせた事案もあった、とだけ記載させて頂く)

 ――だから、だから手塚は探す、探し続ける、悴む四肢を労わること無く来た道を辿り、整理整頓された家を荒らし、跡部に教えて貰ったドイツ語でもって初めて駅員に声を掛けた。合鍵捜索道中、少しも手を抜くことなく、今の手塚が出来る精一杯を尽くした――そう評価出来よう。

 だが、しかし。



「――な、い」
 今度のそれは疑問形ではない。断定。落胆。語尾は下がるさがる、悲しみを滲ませて降下する。自らに告げる、認めたくない、去れど紛うこと無き現実――悲報。
 手塚は、見つけられなかった。
 三時間の内に挽回することは叶わなかった。
 家出の捜索に見切りをつけ、踵を返し、跡部のマンションの集合玄関へ再度向かう際も血眼になって探した。普段の、冷静で、というより感情表現が著しく乏しくて、落ち着き払っている風にみえる彼自身とは正反対に位置するような狼狽えっぷりで、惨めな気持ちすら振り払って探したというのに。最大限の努力を払っても、対価となるものは得られなかった。
 冷えきった膝が笑う。嘲笑う。心身共に不甲斐なさを痛感する。諦念の籠る溜め息を一つ零すと、手塚は、静かに集合玄関の床に腰を下ろした。遣る瀬無い手付きでおずおずと携帯を取り出す。時刻は、十七時二分。もうそろそろ彼が帰ってきてもいい時間だ。
 しかし、まともな言い訳も謝罪も、気の利いた手土産さえも、何一つ用意していない。今から考えるにしても、疲労感に包まれた脳は、これ以上思考することを拒否していた。

”お前の為に用意した”
”嗚呼、……特別に、だ”
”だから、何時でも来てくれて構わねぇ”

 自虐映画ナウ・ショウィング。厭きること無く再現される、ありありと思い出される、幸せな記憶。嬉しかったあの出来事は、落ち込んでいる手塚を更に打ちのめす、悉く残忍なものへとすげかわる。
 自分は――自分は彼の、自分だけに向けてくれた特別な好意を、台無しにしてしまった。手塚に甘い跡部とはいえ、今回のこの惨事には流石に腹を立てるに違いない。しかし、立腹され、喧嘩するだけなら――まだ良い。跡部とはとりわけ喧嘩と呼べる状態になったことがない手塚としては、仲の修復には相当試行錯誤せねばならないことにはなるだろうが、それでもまだどうにかなりそうな気配がするだけ「マシ」と云える。
 問題は、この一件でもし――もしも二人の間に、並々ならぬ深い溝が出来てしまって、最悪の事態でも引き起こす切っ掛けになったとしたら――。といった、どれほど己を律しようとも心穏やかにはいられないレヴェルにおける話、だ。
 事実、どんなに仲の良い、気が合うカップルでも、些細な喧嘩でその関係が破綻してしまうことなどざらにあるわけだ。だのに、彼らが今回抱えてしまった問題の争点、キーとなるものは、文字通り「鍵」だ。スペアキーなのに代わりが効かないという、極めて特殊な、そして言わずもがなではあるが凡そ誰にとっても貴重品とされる代物である。
 その上、諄い様ではあるが。

”お前の為に用意した”
”嗚呼、……特別に、だ”
”だから、何時でも来てくれて構わねぇ”

 ――跡部に、あの跡部景吾に、ここまで言わしめた物なのだ。
 いつもは、本当に大事に管理していたんだ、外出時に鍵を掛ける際、それが他の鍵とぶつかってキンと音を鳴らすだけで、何となく温かい気持ちになったことだってある、お前の家の鍵口に挿し込んで回ることを確認する度に何となく優越感染みたものを感じてもいる、そう、そう思うくらいには――。
 ――なんて、手塚が幾ら取り乱して訴えようとも、意味が無いのは自明のことである。現状、二人の間に横たわるのは、手塚が合鍵を失くした、という事実のみなのだから。先ずは、この失態を跡部がどう受け取るか分からない以上、手塚の脳内で飛び交う言い分は意味をなさない。
 それに、彼は確かに手塚に甘く甘く、懐の深い男であるが、この事態でどういう対応を取るのかは――知らない、手塚には分からない。
「……すまない」
 悲壮感漂う、弱々しい声が洩れる。言い訳も謝罪も、気の利いた手土産さえも、何一つ用意はしていない。それでも、口にせずにはいられない。最悪の事態を避けたいと思うなら、話術も小手先の技術も持たない彼は、誠心誠意謝る外、術はない。絶望に浸っている場合では無いのだ。この惨事を聞かされて落胆するのは寧ろ跡部の方なのだから――。


「……て、手塚?」
 ――そう思っていた矢先に、だった。どうして玄関になんているんだ、なんて疑問が聞こえてきそうな声がして、手塚は異様に肩を竦ませた。
 無理もない、だって顔を見なくとも分かる、この声は、合鍵をくれた張本人――跡部景吾のものだ。
 ずかずかと近付いてくる気配、迫る足音。
 謝らなければ――

「冷た――ッテメェ、いつからここでこうしてやがったんだ!」
「……すまない」
 腕を掴まれた瞬間、手塚は取り敢えず謝罪を一つ口にしたが――タイミングの悪さ故に、それはここで呆けていたことに対して発されたものだと捉えられてしまう。物珍しい、手塚からの「すまない」と酷く落ち込んだ様相に、跡部は戸惑いながら手塚の腕をくいと上に引っ張った。
「――い、良い、兎に角あがれ、直ぐに暖房つけて温かい飲み物でも淹れてやる」
「い、いや、それよりも……」
「話なら後で聞いてやるから、早く立て。――立てないのか?」
「たっ、立てる、が、その、跡部、」
 中々その場を動こうとしない手塚に、跡部が怪訝そうに彼の顔を覗く。数センチの距離にある跡部の表情は、心底手塚を心配するもので――罪悪感に苛まれながら、手塚は何とか、唇を震わせた。

「鍵、を」

 失くした――とまでは声にして出せなかった。がしかし、その単語を跡部に伝えることには成功した。後は、他人任せになってしまうが、勘の良い彼なら、そのワードと、手塚がここで待ちぼうけを食らっていたという事実だけで大方察しがつくだろう。
 どれほど叱咤され批難されようとも、手塚にはそうされる非がある。だから彼は、避けようのない神の怒りを食らい、それでも祈りのような謝罪を捧げ神に乞おう――なんて、訳の分からぬ変な覚悟をも決めていたのだ。
 すると、だ。
 跡部は二、三秒程静止した後――こう言った。

「鍵?――ああ、そんな話、後で良いだろ。だから早く――」


 ――この時。
 跡部が手塚の愚行を許してくれそうなニュアンスでそう言ってくれた時。
 良かった、と、取り敢えず家には入れてくれるのだと。藁にも縋る思いでそう喜ぶべき手塚だが、ここで何故か――無性に、どこからともなく、「怒り」が湧いたのだった。



(――後で良い、だと?)
 弱い立場である筈の手塚に烏滸がましい憤怒を抱かせたのは、その言葉。
(後で良い、筈がないだろう――だってお前、あれは)
”お前の為に用意した”
”嗚呼、……特別に、だ”
”だから、何時でも来てくれて構わねぇ”
(お前が、特別だと言って渡してくれたから、だから俺は――)
 もしこれが、失くしてしまったものが例えば、友人から貰った程度のものであれば、自分はここまで身を粉にして頑張らなかっただろうに――と。
 つまり、いつも言葉足らずな手塚がこの場面で主張したいのは、鍵の有無そのものではなく、其処に属された――彼から預けられた信頼を台無しにしてしまったことを嘆いているというのに、その信頼自体が――まるで大したものでは無かったと、「後で良い」という一言で怒りもせずあっさりばっさり切り捨てられる程度の気持ちしか込められていないものであったのかという疑問、に近い怒り。そして、跡部自身にそう割り切られてしまっては、では自分が過ごした三時間はなんだったのだと、それだけではなく、鍵を頂戴した時の喜悦はまさに「ぬか喜び」で、己は只の勘違い浮かれ野郎だったというのかと――そう詰りたい心境にある。
 辛うじて残存する理性を以て推察するに、跡部が怒っているか否かはさておき、この寒い中手塚がずっと待っていたと思う跡部であれば、鍵のこと云々よりもまず先に、身体を心配するというのが恋人としては正しい。
 だが、手塚という男は非常に面倒臭いことに、どうにもそう素直に受け取れない。
 いや、仕方ないのかもしれない。
 手塚という男は、己の素晴らしき特性、活かすべきその長所を持つが故に――恋愛に於いてはそれに縛られているのだ。
 跡部が自分の体調を気にするのは、付き合っているからではなく、――プロのテニスプレイヤーとしての手塚を好いていて、それ故に心配する素振りをするのだと、今の手塚にはそう思えてならないのだ。
 そうとすれば、だ。自ずと手塚の導き出す結論は――。

(跡部は、俺自身ではなく、矢張りテニスをする俺が好き、なのか)


 となってしまうのも、無理ない、といえば無理ない。

 とはいえ、矢張り自分に非があって、それを改善もしない内に苛立つだなんてお門違い、そうも分かってはいるのだが――今までの苦労を一蹴されてしまったような状況と、極度の緊張状態から解き放たれたことにより、手塚は。

「――っ」
「え、あ、おい、手塚!?何処行きやがる、おい!!」

 悄然、憤然、忽然――として逃げ出した。





 →後編

 


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